ノート

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自分が少林寺拳法や大東流合氣柔術を習っていた時には無かったのに、師父に教わり始めてから自然と習慣になったことがある。

それが「ノートに書く」ということだ。

誰かに言われた訳ではないし、それまでは特に必要性を感じたこともなかったが、気づけばいつのまにかそれが当たり前になっていた。

ノートの内容も、年を経るにしたがって変わっていく。

最初の頃と後半の頃では、書いてある内容や密度に雲泥の差がある。

ありがちであるが、初めの頃は見た目や形に関する表面的なことばかり書いていた。

それが、ノートも三冊目くらいになると書く内容も変わってくる。

例えば、師父とのマンツーマンで行われていた拝師弟子練習の様子というのは、まず最初に15分ほどザーッと講義を受けるのが常だ。

そのうち、いっぱいいっぱいになり「す、すみません。そろそろ限界です。ノート取っても良いですか?」と宣言して5〜10分ほどその場でノートにまとめる。

間に実技を交えながら、そんなことを2〜2回半ほど繰り返して、「やるべき事はわかったので、次まで練習しておきます」といって終わるのが、自分の拝師弟子時代の練習風景だった。

その頃のノートの特徴と言うのは、ポイントを抑えつつ簡単にまとめながらも、後から思い出し易いように工夫が感じられる。

内容自体、今、見直してもあらためて面白いと思うが、それでも現在の目から見るとやはり良い意味で月日の積み重ねを感じるものだ。

ここ何年かは、もうほとんど師父に教わる機会もなくなり、もっぱら教えることの方ばかりなわけだが、実は今もまだノートをとる習慣は今だに続いている。

というのも、前々回の「知命」の内容と被るのだが、自分の練習をしては気づきがあり、教室で教えていても気づきがある。

しばらくの間は、ノートを取る習慣は消えていたのだが、相模原の「白峰会」と愛知県の「宇童会」で、教えたことになるべく差がつかないようにと再びノートを取り始めてみると、普段の中にいかに多くの気づきや学びを得ているかと言うことにあらためて思い至ったのである。

今では、ノートを取ることはまず最初に自分の為以外、何ものでもない。なので、教室では生徒さんがメモを取っている横で、自分もまた教えながら、一生懸命メモを取っている姿が当たり前の風景になっている。(笑)

自分にとっては、教える事と学びを得ることには境目がなくなっている状態だ。あらゆる事がきっかけとなって、幾らでも気づきや学びは生まれてくる。

気づきや学びは、技の精度や深化に繋がり、套路はより理路整然と磨かれて深みを増していく。

それらをノートに記していくことは、喩えるならば壮大なパズルのピースを埋めていく作業のようだ。ピースが埋まっていくことで、徐々にまるで曼荼羅のような体系図が浮かび上がってくる。

太極拳も形意拳も八卦掌も、我々にとっては別物ではない。かと言って同じものでもない。内功武術という大きな曼荼羅の中で、それぞれの役目を持ちながら、それぞれに関係し合っている。

その中に「心、意、氣、力」「陰陽」「直と円と螺旋」等、色んな要素が意味を持って絶妙に配置されていることが、折に触れて見え隠れする。

ノート一つでもこんなにも面白い。我々の内功武術の味わいは、こうしたところにもあると思う。

蛇形

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記念すべき第一回の「精花太極拳 ソレイユの会」は、いつもの生徒さんが一人。それでも、初めに別の場所で教室を開いた時は、生徒さんがしばらく「0」人でしたから、一歩前進かもしれない。ありがたいことである。

教室の内容とは言えば、記念すべき精花太極拳専門クラスの第一回目でありながら、生徒さんが「精花太極拳のホームページに書いてあった、蛇(形意拳の蛇形)って、どんなのですか?」という質問から、蛇形の練習になってしまった。

ホームページに書いてあった蛇形とは、弟子が亡くなるほんの少し前に、歩行が困難になり始めた時のこと。歩くリハビリがてら六階の病棟内を散歩する時に、形意拳の蛇形でさりげなく練習したエピソードのことである。

「ああ、蛇?こんな感じだよ。」

質問されて嬉々として自分が無意識のうちに見せたのは…小さな歩幅でゆっくりゆっくり歩く姿だった。手だけが少し奇妙な動きに見えるだろう。

「こうすると、全く体に負担をかけずに歩けるんだよ。歩くときに筋肉がグッとくるのがないから、痛みを引き起こすこともないんだ」

そう言いながら、しばらく二人で練習していると生徒さんが何をどうやっているのかと、戸惑いの表情をしているのに気づいた。いけない、そう言えば本来の蛇形を見せていなかった!

本来の蛇形を見せたら、初めて生徒さんが「おおっ、これが蛇か」という表情をした。

「そう、この練習をしてたんだ。単に体を動かすのが目的じゃない。ちゃんと明日に繋がる、(技を)一歩前進する為の練習だったんだよ。」

自分のとっては弟子と一緒に散歩した時の蛇形が、自分の蛇になっていた事に笑ってしまった。

そして後になって泣けてきた。

あの時、自分と弟子が歩んでいた一歩は、こんなにも小さな小さな一歩だった。

でも、前を目指して歩んでいた。

「…最後は体が動かなくなって、片目しか残らなかった時…。それでも目に気持ちを込めるという我々の包拳礼をしていたんだよ。」

そんな話をした、第一回目の教室だった。

精花太極拳のホームページが出来ました!

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相模原で、新しい教室・精花太極拳の専門クラスが開講するのに合わせて、このたび精花太極拳のホームページを開設致しました!

『精花太極拳』
http://seika-taichi.com

「内功武術 明鏡拳舎」の雰囲気とはガラリと変わっていますが、精花太極拳には自分が学んだものを全て入れ込んであることには変わりありませんし、精花太極拳ならではの新たな可能性・新たな風を感じつることが出来たらと思っています。

 

知命

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論語に有名な「志学」がある。
「知命」とは、その中に出でくる言葉だ。

自分も昨年の11月で50歳になった。知命の歳だ。

前回お知らせした、2月から新しい教室が開講することに対しての意気込みというわけではないが、志学について常々思っていたことを書いてみたいと思う。

志学は、

「吾、十有五にして学を志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(したが)う。
七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず。」

という文であり、ここから、一五歳を志学、三〇歳を而立、四〇歳を不惑、五〇歳を知命、六〇歳を耳順、七〇歳を従心と称するのである。

自分自身に照らし合わせてみれば、30代前半は自分の師を求めて模索していた歳だ。やや、本来の意味合いとは異なってしまうが、一門を構えている今、師父と出会うことでようやく自分が腰を据えて立つべきスタート地点に立ったと言えるだろう。

40代には武術の為に仕事を変えた。長年勤めていたゲーム会社を辞め、武術の時間を作るために給料は安くとも時間の自由が取れる今の福祉の仕事へと移ったのである。逆に言えば、武術をやっていなければ、「自分の絵はここまでだ」という想いは生まれてこなかったに違いない。だが、それはまさに「不惑」だ。

そして、精花太極拳が生まれ体系化された今、少しずつ教室を増やしながらこの本門の内家三拳に加えて精花太極拳を広く伝えていこうという強い想いがある。これは自分にとっては年齢といい中身といい、紛れも無い「知命」だ。

天の時。地の利。人の和。

今の自分を省みると、図らずしもそれらは自然と「知命」に向かって集約しているように感じられる。新しい教室を開いたのは、そうした想いのこもった一歩でもあった。

ところで、志学について書こうと思ったわけは、実はもう一つある。

「而立」から「知命」に至るまで、自分にとって非常に心に響き、半ば人生の指針としているわけだが「次は何だろう?」と思いながら60歳にあらためて注目すると60歳は「耳順」。

ところが、この「耳順」については、日本語だとどうにもこうにもシックリくる訳や解説がないのである。

50にして天命を知ったのに、60になると「人の言うことを素直に聞けるようになる」といった解説がほとんどで、悪く言えばたんなる聞き分けの良い老人(というか、それまでは聞き分けのない老人と言っているようなもので)、良く解釈してみても、せいぜい「言葉からその人の真意を読み取れる人」というくらいだろう。

だが、そんな境地を「志学」と言えようか。

良い解釈の方ですら、50の「天命を知る」とは、かなりの隔たりがありはしまいか?

とにかく納得がいかないのである。

だが…!

我々は「聴勁」という言葉がある事を知っている。聴勁とはザックリ説明すれば、「耳を欹(そばだ)てるが如く、微小な力やその方向を感じ取れる巧みな力」のことであるが、まさにその事を指しているのではないかと思われる。

つまり、聴勁の如くあらゆる物事の中に自然の力(法則等)の存在を感じとり、物事の意味や本質(真理)を見極めながら学んでいく事が出来る、それを「(天の声を)聞く」と表現しているのであれば、そうした考えの方が自分にとっては自然だし、しっくりくる。

天命を知ることで、あらゆる事象に天の声を聞き、「天の声に耳順う」のだ。

だから70歳で「心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず」と言える境涯になっていられるのではないだろうか。

自分の今の状況を省みると、すでにもう何年にも渡って先生から教わる機会はほとんどないわけだが、では学びがそこで止まっているかというと、そうではない。

自分の練習をしては套路や基本功から学び、生徒に教えては気づきがある。学びや気づきの機会は、いつのまにか自分の周りに溢れており、教えることと学ぶことの境がなくなっているような感覚だ。

やること全てにおいて法則を知る、つまり少しずつではあるが、これは天の声を聞いている状態とは言えまいか?

…と、偉そうにこのように書くのは別に悟ってるわけではなく、むしろこれからの自分に対して背水の陣を敷いているに等しい。(笑)

「僕の前に道はない。僕の後に道は出来る」

とは、高村光太郎の「道程」という詩の一節であるが、「知命」とは、そういう境地なのかもしれない。

2月より新教室が開講します!

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お知らせです!
今年2月から、念願の駅近に新しい教室が開講します。

JR横浜線 or 京王線 の「橋本駅」から徒歩1分!
場所はイオン6Fにある「ソレイユさがみ」にて

毎週・火曜日
【第一部】 18:30~20:00
【第二部】 20:05~21:45

に、精花太極拳を体系的に教えていきます。

自分の学んできた武術の粋が詰まっているのが精花太極拳です。
雙邊太極拳の理解が深まるだけでなく、形意拳や八卦掌にも繋がっていく、まさに明鏡拳舎の武術の「核」とも言える套路です。

これを機会に、是非お気軽に足を運んでくださいませ。

以下は、細かいスケジュールです。

◆名称:「精花太極拳ソレイユの会」

※ソレイユさがみ
神奈川県相模原市緑区橋本6-2-1 シティ・プラザはしもと内

2/05(火)セミナールーム4
2/12(火)セミナールーム4
2/19(火)セミナールーム4
2/26(火)セミナールーム3

3/05(火)セミナールーム3
3/12(火)セミナールーム4
3/19(火)セミナールーム4
3/26(火)セミナールーム3

4/02(火)セミナールーム3
4/09(火)セミナールーム4
4/16(火)セミナールーム3
4/23(火)セミナールーム3

以上

六合八法と精花太極拳

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前回のブログを書きながら、当時の事を思い出して色々な出来事が蘇ってきた。そして思い出せば思い出すほど、あらためて「精花太極拳」生まれる過程の、ある一つのエピソードを外してはならなかったと思うのである。

それは、精花太極拳にまだ名前もなく、ただ「シンプルな雙邊太極拳」と呼んでいた頃。

最初はふとした発想から何気なく取り掛かり始めたにもかかわらず、なぜかそれをもっともっと追求したくなる欲求を抑えきれずに、気づけば引き返せない大海原のど真ん中にいた。

今から思えばそんな感じなのだが、その時はまだ体系化などは微塵も考えておらず、ただただ、複雑に見える双辺太極拳がシンプルでわかりやすいものになっていくのを純粋に楽しんでいた頃であり、色んなことを試していた頃でもあった。

その試していた色んなことの一つに、元・兄弟子である市橋さんから築基拳を教えていただいたことへの感謝の気持ちから、ささやかなオマージュとして、一箇所だけ築基拳の雰囲気を入れ込もうとしたことがある。

しかし、そもそもが雙邊太極拳から八卦掌や形意拳の要素を抜いて純粋な太極拳に立ち戻ろうという発想であったわけなので、結局、その試みは中途半端なものになり、最初の意図とは違った形に変化していく。

ところが、それが実は精花太極拳の重要な一要素でもあり、名前の元にもなっている「花」という技&概念に繋がっていくことになるのである。

この頃には、いろんなことが繋がって、精花太極拳を編纂する意味がどんどん自分の中で明確になっていくのがわかった。

精花太極拳という名前については余談になるが、中国語でエッセンスを表す言葉が「精華」であったことも、自分にとって不思議な符合と言える。と言うのも、「シンプルな雙邊太極拳」でやりたいことの一つには、一旦余分なものを削ぎ落とすことによって太極拳のエッセンスを見極め、より太極拳の理解を深めたいという思いもあったからだ。

同時に、源流である陳式太極拳への敬意も込めて、あくまで自分のものは”太極拳のエッセンスを含んだもの”という表現にこだわっていたところもある。

そんな個人的な背景もあって、六合八法がきっかけとなって生まれてきた発想の「花」と、エッセンスの意味である「精華」は、中国的なものから日本的なものへという発想やニュアンスも加わって「精花」という名称へと帰結することとなる。

つくづく、こうした一連の流れというか、巡り合わせとは良くできているものだと思う。

直接的な繋がりではないものの、六合八法を元・兄弟子のもとで経験しなければ、「シンプルな雙邊太極拳」は、「精花太極拳」とはまた違った名称やまとまり方をしていたかもしれないと思うと、市橋さんとは違った道を歩むことにはなったが、やはり兄弟弟子としての不思議な縁を思わずにはいられない。

タイトルが「六合八法と精花太極拳」なので、ブログを読んでくださっている方の中には、我々の三拳弊習的な内容を期待させてしまったかもしれないが、こうした精神的な繋がりもまた自分にとっては大切な繋がりなのだ。

「太極拳」「形意拳」「八卦章」の三拳を一門派に収めた過程には、一朝一夕で出来上がるものではないものであるが故に、必ずやこうした段階があっただろうからだ。

技術だけを受け継ぐのが伝承ではない。そこにある「心」も受け取ってこそ、伝承であろうと強く思うのである。

六合八法拳(精花太極拳の編纂過程〜番外編〜)

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自分は常々、たとえ著名な先生方と交流をさせていただいたとしても、極力、お名前はどこにも書かないようにしていた。
というのも、武術界では無名の自分がそうした先生方のお名前を出させていただくことは、「虎の威を借る狐」というか、分をわきまえない不相応な行為のような気がしていたのだ。

今回は「六合八法拳」のメインタイトルに、サブタイトルが「精花太極拳の編纂過程〜番外編〜」になっているわけだが、精花太極拳の編纂過程…というよりも、精花太極拳が生まれてきた過程でどうしても外せない方がいる。

それが一時、自分の兄弟子の存在でもあった「日本六合八法内家拳術會」の代表でもある市橋秀実先生である。(以下、普段呼んでいるように市橋さんと書かせていただくことと、この記事が市橋さんの許可を得たものである事を明記しておく)

諸処の事情により、市橋さんとはいつどこで兄弟弟子の関係にあったかを詳しく説明することは出来ないが、今も昔と変わらず交流は続いている。

ざっと経緯をたどると、市橋さんとは一旦、兄弟弟子の関係でなくなってしまった後も、「内功武術 豊松会」の主催者である故・豊増先生へのご挨拶も兼ねてよく道場で顔を合わせていたし、練習に参加させていただいたこともあった。

その後、市橋さんがめでたく「華獄希夷門」の正式門人となり、「日本六合八法内家拳術會」の代表となられた時も、お祝いがてら伺った際には、武術好きの血が騒いで色々と六合八法拳について質問させていただいたものである。(笑)

それがこのタイトルに繋がっていくのは、以前のブログ、「精花太極拳」の中で、

『癌で闘病中の弟子が悲しそうに言うには、点滴の針が刺さった腕で練習をしようとすると、双辺太極拳の最大の特徴でもある「螺旋」があるが為に、
「点滴の針が腕の中でよじれて痛い」

と言うのである。』

という話を書いた、その時の事である。

もちろんこの時に精花太極拳の発想すら影も形もなく、捻りがない拳法といって浮かんだのは、まさに第4の内家拳とも呼ばれる六合八法拳であった。

市橋さんにはその時、どの程度事情を説明したかはよく覚えていないが、快く六合八法のメイン套路とも言える「築基拳」を、諸処の事情を越えて自分に教え始めてくれたのである。

そして習いたての、まだやり始めたばかりも良いところの中途半端な套路を、病院の個室で、闘病中の弟子に嬉々としてやって見せた事を覚えている。

当時、まだ師範でもなく精花太極拳もなく…今と比べてしまうとまだまだ太極拳の知識が浅かった自分には、兄弟子の気持ちが、どんなに嬉しく心強かったかしれない。

だが結局は、弟子自身はほとんど築基拳をやる機会もなかったのだが…。

この頃のエピソードで、一つ深く印象に残ってる出来事がある。

それは、純粋な力の出し方を行う築基拳を初めて体験した時のこと。その後の飲み会で手が震えて箸を落としてしまうほど、身体の感覚が違ってしまっていたのである。

一番ショックだったのは、その時、八卦掌の「螺旋」だと思っていた感覚が、すっかり消え去ってしまったことだ。

以前のブログ「明鏡拳舎の八卦掌2」にあげた動画が今から7年前なので、それなりに出来ているように見えるその時の八卦掌の功夫ですら、実はまだまだ螺旋の理解も功夫も足りていなかったのである。

自分が八卦掌の「螺旋」をさらに研究するようになったのもこの事がきっかけなので、市橋さんには心の兄弟子として、色んな導きをいただいたと思えて感謝に堪えない。

もちろん、その後7年の間には様々な気づきもあったし、螺旋の意味も深まったと感じている。自分の八卦掌もまた、その時と同じところに留まってはいない。

話は逸れたが、弟子が亡くなったあとも、市橋さんは築基拳を最後まで誠意を持って教えてくださった。築基拳も長い套路なだけに、最後まで終えるのはその過程も含めて、やはり感慨深い。

ただ、六合八法としてはその解釈にカスタマイズされた形意拳や八卦掌、さらに三盤十二勢や呂紅八勢など、それ自体が練功でもあり変化・応用でもあるものをやらなければ六合八法の体系を学んだとは言えないことは自分自身がよく理解している。

だが、自分にはやはり自分の形意拳や八卦掌があり、ここから先は再び、それぞれの門でそれぞれの道を歩んでいく事になるだろう。

市橋さんもそうした事を全てわかった上で、貴重な時間を割いて伝えてくれた事は、本当に義侠心に溢れた姿だと思っている。

市橋さんは、今でも自分にとっては兄弟子のままだし、尊敬の念にやまない存在なのである。

…と、話はここで終わりではない。

次回は、「六合八法拳と精花太極拳」というタイトルで、今までとは違った内容から精花太極拳の編纂過程を紹介しようと思う。

精花太極拳の編纂過程その3

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精花太極拳における練習体系は、あえて
「書・剣・花・雲・鳥・風・地・天・人」
という日本人にイメージしやすく分かり易い言葉で、九つにまとめた。

これをさらに見やすく八卦掌の三回九転の考え方で並べ直すと、左上から、

書・剣・花
雲・鳥・風
地・天・人

となる。

そもそも練習体系は何のために存在するかと言えば、太極拳の理解を深めるため、太極拳的な考えを養うためであり、その為の方便が九つの段階練習ある。

もっと言ってしまえば、愉しみながら無理なく太極拳が出来て、なおかつ、わかりやすく面白さを感じながら理解が深まっていけば、それが良い。

精花太極拳には、自分の経験や学び得た全てを入れ込んであると書いたが、逆に言えば、それらをいかに伝えるべくして伝えるのか工夫してまとめたものが練習体系なのだ。

九つの文字には個々に学ぶべきテーマがあるが、初心者が順を追って学ぶには、例えば

書・剣・花(上下相随)
雲・鳥・風(下実上虚)
地・天・人(一動全動)

というように、大きく三段階のテーマにも分かれているし、また左側の縦の列に注目するとそこには、

書(精花太極拳を覚える)
雲(楊式太極拳との繋がりを学ぶ)
地(陳式太極拳や双辺太極拳の繋がりを学ぶ)

というテーマも含まれている。

単純に言えば、精花太極拳という一つの太極拳でありながら、テーマを変えることによって、我々の太極拳にとって重要な二つの門派の雰囲気を、あくまでも独自の解釈には過ぎないのだが、擬似体験できるようにも工夫してある。

ルーツを辿る過程とも言えるし、変化の意味を知る過程とも言える。

もっともその事に気付いたのは、ある意味、偶然と言おうか、偶然の必然と言おうか。それぞれのテーマで練習している時にふと「自分が何の太極拳を練っているのかわからなくなった」瞬間があった。逆に言えば、その瞬間は楊式にも陳式にも精花太極拳にも…いずれの太極拳にも自然に繋がって行く感じがした。その時、今までバラバラだった色んな事が全て繋がって感じられたのである。

他にも例えば、こんな捉え方もある。

書・剣・花
雲・鳥・風
地・天・人→力
↑ ↑ ↑
氣・意・心

これは縦に「氣・意・心」。九つ全体で「力」
当然の事ながら「心・意・氣・力」の、内三合の要素がテーマになる。

もちろん内三合は、常に出来ていないといけないものではあるのだが、それぞれをテーマにして行う事で、それぞれの働きや特徴をよりハッキリと認識する事が出来る。

というよりも…それ以前に、そうしたイメージや意識で行うことが、不思議としっくりくるように出来ているのだ。

等々…

これらは体系の説明の一部であるが、初めからこうしたものを作ろうと思って作り上げたわけではない。始めから作ろうと思ったら、何からどう取り掛かるかすら見えなかったに違いないだろう、

一つ一つ丁寧に愚直に模索していく中で、一つ一つ気づきを得ながら、ある所に至ると自然に次の門が開いていく、そんな感覚であった。

そうした末に出来上がったものを俯瞰して眺めてみると、「守破離」の末に、なぜ精花太極拳という「本」が必要だったかがわかる。

一つには、我が門の最大の特徴でもある三拳弊習だが、「太極拳・八卦掌・形意拳」の三拳を修めるのはとても大変なことだということは、自分自身が身に沁みて感じているからだ。

学び終えた末に自分の中に宿るものはとても素晴らしいものなのだが、そこに至るまでの道のりは当たり前だが長い。中には「天・地・人」に恵まれなければ、得られなかったと思われるものもある。

だからこそ集大成というものが必要で、そしてなお、振り返ってみればそこに至ってこそ新たな出発点なのである。

…ああ、そうだ。

つまりは、

「地(守)」「天(破)」「人(離)」

という事なのだ。

離こそは、人(個)としての出発点だ。

だからこそ精花太極拳という「本」が生まれた。

ならば…精花太極拳という独創的な体系の太極拳を、所詮は創作した太極拳と引け目に感じることはない。なぜなら、見た目や使う言葉は違っても、それは自分が身につけた三拳弊習の体系そのものだからだ。精花太極拳は、ただ「新しい套路を作った」に過ぎないのではない。

おそらくこうした変なこだわりを持って、こんなものを作ろうと思う人は少ないに違いない。自分もまた意図して作ろうとしたわけではなく、ふと気づいたら出来ていた。

「頭で考えて」というよりも、「心で感じながら」必要に応じて自然に生まれてきたもののよう思えて、だからこそ面白いし、精花太極拳と共に生きるのもまた自然だと思えるのである。

精花太極拳の編纂過程その2

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さて、前回その1は師父からのメールの内容は?というところで終わっているので、まずはそのメールの内容からである。
あらためて、そのメールをいただいたのは「守破離」を論じたブログを書いた時だ。抜粋にはなるが、以下に掲載したい。
なお、師父に代わってお断りしておくならば、その内容についてはあくまでも当門に伝わるものだということをご了承いただければと願う。

「ご存知の通り、これは日本発祥の道芸に関する考え方ですが、日本武道や日本文化を研究、あるいは留学によって吸収していた、国民党及び中央国術館の諸先生先輩の間で、様々な見解が交わされたものだ、と榮明先生から伺っていました。
その大筋は日本武道、茶道、その他芸道の様々な一般的な教えの紹介…これは特に新流派創造にとって実に都合のいい解釈として受け入れられていましたが、中には中国武術ならではの解釈を矜恃とする先生もおられ、陳泮嶺先生は正に、宇野さんとほぼ同じく、明暗化の三層之功夫を論じられたそうです。
ただし、本については、明暗化を経て自分が達した高みを説くに終わらず、次に伝えるべき基本こそを再構築せよ、基本を編み出してこそ指導者たりえるのであり、それなくば伝承は果たせぬ、との見解だったそうです。
榮明先生はその教えを受けてさらに、
守:まず我が身を守りきる
破:敵の技を破り敵を破る
離:攻守勝負を離れた境地
本:守破離から産む基本
とも解され、
その上で、わかりやすく初学者向けに用意するカリキュラムとして、
守:太極拳
破:形意拳
離:八卦掌
本:基本功(常に)
の順に教えるのだ、という考え方を、ある時期しきりに説かれていましたが、極峰拳社を作ってからは、むしろその手順にとらわれるなと、よく仰っていました。」

これが師父からいただいたメールの抜粋である。

最近あらためて拝読して、自分が精花太極拳を編纂したのは、このような意味があったのだと気付かされた次第だ。

精花太極拳とその練習段階には、まさに自分が今までに学んだ教えや研鑽した結果を全て注ぎ込んでいる。その中には介護の経験すら含まれており、まさに現段階での集大成だ。その上で、誰もが取り組みやすいようにと編纂を心掛けた。

つまりは精花太極拳は、その基本功や練習体系を含めて、全てが「次へ伝える基本」。即ち「本」なのだ。

さらに自分はブログ「守破離」の中でさらに自分はこうも書いている。

「自分が教える太極拳とは、
師父が教えてくれた太極拳でありながら、
師父の太極拳ではなく自分の太極拳であり、
ではその自分の太極拳はと言えば、
自分の太極拳などというものはなく、
ただ「太極拳」なのである。」

と。

まさかこの時は精花太極拳を自分で生み出そうなどとは露にも思わず、単に細かい枝葉の違いという意味くらいにしか考えていなかった。

だが、双辺太極拳から精花太極拳が生まれた後であっても、この言葉が変わる事はないし、むしろその意味は深まっている。そう、前半の3行については、この言葉通りだ。

それよりも、後半の『自分の太極拳などというものはなく、ただ「太極拳」なのである。』とは、あらためて当時は(と言ってもわずか3〜4年前なのに)随分と世間知らずで恥ずかしい事を書いたものだなぁとも思う。だが、道を歩んで行くのならこのくらいの気概を持っても構わないとも感じるし、まだまだたくさんの恥ずかしい思いをするだろう。

だが、それ以上に太極拳や武術が与えてくれる学びは、面白いし素晴らしい!それに尽きる。精花太極拳を編纂する過程で、もっとも感じたのはその事である。いわば、先師が通った道を、自分も追体験したのだ。それはあらゆる原点のようにも感じる。

ただ「太極拳」と言えるもの。それを追求していくのは、まさにこれからだ。

ちなみにいただいたこのメールの後には、師父自身の考察や気づきが綴られていたのであるが、それは是非自分の兄弟弟子が自らの力で、自らの行動を通して師父から引き出していただきたいものである。

なぜなら師父の考察は、自分で師父から学び得てこそ、価値のある内容だからだ。

そして自分の学生や拝師弟子には、こうしたやり取りの中に、師弟というものの気迫を感じ取って欲しいものである。

精花太極拳の編纂過程というタイトルを付けておきながら、過程というよりも総論になってしまった。

次回、段階練習が生まれていく過程も含めて、体系としてまとまっていく様子を、なんとなく記録的な意味合いで残しておきたいと思う。

保護中: 資料映像1(会員限定)

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  • 日時 2018年11月19日
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