太極拳雑感(1)

標準

明鏡拳舎では、なぜあくまで武術として太極拳を教えるのか?

例えば、一般の格闘技ではパンチは踵を浮かせて思いっきり蹴りだすようにしながら腰の回転で打つのに対して「太極拳ではなぜ踵をつけたままで打つのか?」というような素朴な疑問。

そんな素朴な疑問には、そうすることによってどういう威力が生まれるかということを、寸勁などを受けてみてもらって実際に体感してもらうのが手っ取り早い。
と、このように書くと乱暴な話のようだが、実際には、相手に合わせて身体は吹っ飛んでも痛みは与えないよう、威力や効果をコントロールするのだからかなり繊細な話だ。

体感してもらうのは、あくまで理解のため・学びのためであるし、勁力を使って打った打撃はどんなに軽いものであろうと相手が納得するだけの現象が起こる。そこには何のごまかしもないし、ほとんどの人は体感した後に笑顔になるか、不思議そうな表情になるかのどちらかだ。

踵を浮かさず、なおかつ、足裏で蹴らない意味、打撃の性質の違い等々、たった一つを実感するだけでむしろ沢山の事を学べるのだから、百の説明をする必要もないのである。と言うよりも、踵をつけたまま打つような要求は、一般的なスポーツ等の認識とは違うのだから、教わる側にとって必要なのは、まず、説明よりも証明だろう。

かと言って、出来ることをひけらかすのでもなく、示威行為でもなく。
我々の太極拳はそういうものだからこそ淡々とそのように教えるというだけで、しかし、そういうものだからこそ愉しいのだ。

愉しいからこそ、笑顔もあれば、学びの真剣さも増す。

少林寺拳法の開祖である宗道臣先生は、嵩山少林寺の白衣殿にある壁画に、中国人の僧と、印度人の僧が二人一組になって楽しそうに技をかけあう姿が描かれているのを見て大いに悟るところがあったという。

武術として教えるということは、けっしてステレオタイプに想像してしまうような殺伐なものではない。元が武術なのだから、その視点に立たないとわからない意味がある。そういうお話である。

ところで、二人一組と言えば、我が門の太極拳には一人で套路を練るだけではなく、二人(時に二人以上)で行う多種多様な推手もあれば、99勢全ての用法を繋げた連散手というものが存在する。

それによって、我が門の太極拳がどういうものかより見えてくるわけだが、そんなわけで、次回のタイトルは

太極拳雑感(2)
「我が門の太極拳と、太極図」

ということで、再びマニアックな話になる。(笑)

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