精花太極拳

標準

二つの太極拳」で初めて話に触れた精花太極拳だが、現状の明鏡拳舎においては、すっかりなくてはならない存在になりつつある。

ホームページの太極拳の項目には、精花太極拳の紹介文として「精花太極拳が生まれた背景には、癌で亡くなった私の一番弟子が闘病の中で共に練習していた時の様々な経験が根本にあり」という文章を載せているが、あらためて、そうした経験がなければなぜ大切な双辺太極拳を再編纂しようなどと思うだろうか。

今更ながら、「双辺太極拳から八卦掌や形意拳の要素を抜いたら?」という発想に至ったのには訳があった。

それはまだ開門弟子が闘病中だった時のこと。癌で闘病中の弟子が悲しそうに言うには、点滴の針が刺さった腕で練習をしようとすると、双辺太極拳の最大の特徴でもある「螺旋」があるが為に、

「点滴の針が腕の中でよじれて痛い」

と言うのである。

そもそも点滴の針が刺さった状態で練習しようということに無理や限界があるのかもしれない。

だが自分がこの言葉を聞いた時、どんなに悔しく愕然としたことだろう。この時の自分には、弟子の真摯な気持ちに答える言葉がなかった。

弟子が亡くなったあともずっとその言葉が頭を離れることはなかったし、この言葉こそが精花太極拳を生んだと言っても過言ではない。

だからこそ、自分にとって精花太極拳の前で言い訳は出来ない。老、病、障がい。どんな壁があろうとも、弟子の頑張っている姿が瞼に焼き付いている限り、あらゆる工夫をしながらでも我々の太極拳の愉しさや素晴らしさを育んでいきたいという想いがある。

一方で、もう一つ発見もある。

その後、精花太極拳を研究していくうちには消したはずの螺旋が全く消えたわけではなく、今までと違う形で入り込んでいるのだというのがわかってきた。八卦掌も形意拳も同様に、気づかないうちに別の姿に変わっていつのまにか緩やかに溶け込んでいることに気づく。

やはり、双辺太極拳は双辺太極拳なのだ。

双辺太極拳から精花太極拳を再編したことの意味とは、原理原則を現実の場で活かすということ。それもまた一つの「応用」だ。双辺太極拳は武術的な視点においても応用が多彩であればこそ、体の弱っていた弟子の為に双辺太極拳を応用したものなのだと捉えると本質が見えてくる。

それによって、精花太極拳を練ることで不思議と八卦掌にも形意拳にも良い影響が現れることの理由も見えてきた。何より双辺太極拳もまた、精花太極拳を身体に通した後は動きが変わるのを如実に実感する。これは全く予想もしなかった角度からの深化だった。

しかしそれもまた「真摯に歩んで行けば自然と今の自分が乗り越えるべき課題が現れる」という事と、その結果であろう。

自分にとってはまさにそうした存在であるように思えるし、生徒達にとってもまた必要があって生まれたものなのだということも実感している。

武術の道を歩んでいくという縦の糸と、その過程での出会いや関わりといった横の糸とが複雑に折り重なって編まれた太極拳。おそらく他人には興味を持たれることもないだろうが、我々にとっては内功武術という大きな模様の中に描かれた大切な一部だ。

 

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