五行奇門対打

標準

久々に五行奇門対打をじっくりと練る。
「五行奇門対打」とは、我が門に存在する形意拳の対練法で、その中で得られる感覚は、いかにも我が門の形意拳ならではの味わいだ。

太極拳や八卦掌が混じるわけではないが、しかし、その功夫なしには完成は遠くなる。
そして、それは同時に我が門の太極拳や八卦掌でなければならない。

そんな独立独歩の風格も、武人としての師祖父の姿を思わせる。

ところで、ある人は言うかもしれない。「いつもいつも、それ程に独自の風格を強調するならば、それぞれ太極拳、形意拳、八卦掌の名前を名乗らずに、新しい名称を考えれば良いのでは?」と。

だが、我々にとってはそれぞれが、太極拳、形意拳、八卦掌そのものなのだ。
形や内容を極力変えずに受け継がれてきたものもあれば、伝承の中でそれぞれ研鑽が積み重ねられてきた結果、今に残るものもある。
技や内容の良し悪しは各々が判断してくれればよい。

また、周りを見回したところで大同小異を持ってわざわざ名称を変えるところは少ないであろうし、そもそもそれが出来るくらいなら、何々派、何々式といった様々な流派が生まれることもなかったであろう。

本題に戻るならば、形意拳の対練套路というとまず浮かぶのは相生克拳や、安心(身)炮といったところか。だが、我が門で行う対打は、もちろん幾つかの段階練習はあるものの、対練套路としては五行奇門対打だけだし、套路にしても師祖父が雑式錘を練功套路から外したように、例えば、形意拳の中級套路とも言われる十二肱錘もまた、我が門の理合に照らし合わせると、練功套路から外すか、一部短くしても良いかと考えたりもする。

足していく事は工夫や努力の結果として分かり易く周りにも認められ易いが、その反面、削ぎ落としていく事は、それを編み出し大切に受け継いできた先師達の努力を踏みにじる行為に等しいとも言えるし、以前は自分自身も「何故、他所の形意拳で当たり前の様に行っている相生克拳や安心(身)炮をやらないのか?」という不安があった。

しかし、今はネットの動画などでそれらがどういうものかを見る事も出来るし、何より、実際に五行奇門対打や我が門の武術を深く理解した後には「なる程、確かに我々の形意拳に必要なものは、師祖父の五行奇門対打なのだ」という事が良くわかる。

前回、違う話で書いたように「あれも良い、これも良い」と付け足していく事は簡単だが、本当に難しい事は「切り捨てる」ということだ。自分たちにとって必要なものを見極め、取捨選択していくということだ。

だからこそ、これ程素晴らしい武術を我々に授けてくれた師祖父が、熟慮した上でそれをやらなくても良いと判断してくれたということは、後から続く我々にとって非常に安心感を与えてくれるし、自ら判断し決断していく事を教えてくれる。

そして、その事を通して師祖父自らが、自分たちが進むべき道を示してくださっているように思えるのだ。

五行奇門対打の中に入っている「奇門」の文字。その技の妙ももちろんだが、その名称もまた、味わい深い。

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