純度と雑味

標準

わずか5年の間でも、基本を繰り返し・繰り返し教え続けていると、まず誰よりも先に自分自身にかなりの気付きがあるものだ。生徒に教えるということは、師父から習ったことを何度も思い起こしながら、どうしたら生徒にその意味と大切さを伝えることが出来るかと、いろんな角度から基本に対する思索を深めてきたようなものであるから、当然と言えば当然かもしれない。結局は、生徒を成長させるのも、自分自身を成長させるのも同じという事だ。

自分自身の理解が深まってくると、自然と教え方も変わってくるし、動きを導くために使う言葉まで変わってくる。一方で「上下相随」「虚実分明」「空胸緊背」等の常に繰り返し引用する言葉は、ますますその意味が深まってきた。それらによって生徒たちの技が一段と変わってきた手ごたえがあり、技や基本も、ある意味シンプルでより明確なものになってきた。
何もかも良い感じになってきた…と思っていたのだが、なかなかそう一筋縄ではいかないものである。

最近も弟子に言われてハッとなったことがあった。それは、自分が初期の頃に教えた、今の自分から見れば雑味が入りまくったある練習法を弟子が新しい生徒に教えていたのだが、わざわざそれを教えたわけを尋ねてみると、弟子にとってみればそのやり方が入り口として「分かり易くて、良かった」と言う。

例えるなら「水清ければ魚棲まず」と言ったところであろうか。
弟子のとった行動は、自分にも覚えがある。

いや、むしろ自分自身がその行動をよくとっていたし、それらの内容を誰よりも大切にしていたと思う。

我が門においては「工夫に力を入れれば(工力+夫)=功夫になる」という師祖父のウィットに富んだ言葉が残されているように、確かにその練習法は八卦掌など名前も聞いたことのないような生徒に、どのように八卦掌を教えていくか?ということを試行錯誤をしながら工夫した練習法ではあった。

それが今は八卦掌がどういう拳法であるかというイメージも皆の中に浸透して、本来あるべき練習法で進められるように教室の雰囲気が整ってからは、その言わば方便のような練習法は自然と消えていったのであるが、習い始めて間もない人には、ある意味、武術の性質から言って純度が高すぎると分かり辛く、逆に雑味が入っているほうが逆に目立つという良さがある、と言ったところだろう。

思い起こせば、今の宇童会を教え始めた時に、なにより役に立ったと感じるのはその雑味の部分であった。それを知っているか知っていないかは、師父の初期からの生徒と後から入った生徒との大きな違いであるとも思っていた。

それがいざ、自分のこととなるとつい純度を高める方に目が行きがちで、意外とそういうところは見おとしがちになってしまうものだ。しかも、なまじ純度が高くなることで成果があがっている分、教える側として未熟だった頃の自分が考えたものなど、つい「もう必要ない」とさえ思ってしまう。

しかし、そういうわけでもないというのは、その時期だからこそ感じ取れるものがあり、その時期ならでは発想出来ることもあるということだろう。

純度と雑味。

その絶妙なバランスを愉しめるようになりたいものである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA