9.3水戸の鍛錬会での学び その1

標準

少し前の話になるが、9月3日は、水戸の地で行われている「水戸鍛錬会」に、久しぶり2回目の参加をさせていただいた。

鍛錬会では日本刀での試斬の他、短刀捕りが行われる。

前回参加の時は、様々な試し斬りの様子を動画にアップしたが、今回は短刀捕りの様子を遠山師父が一部写真で撮影をしてくださっていたので、それを元に今回の経験をあらためて振り返ってみたいと思う。

こうして見ると、自分の表情からは短刀捕りの緊迫感は伝わらないかもしれないが、実際にこの時の短刀はゴム製だったというのに、後で気づいてみれば以下の写真のように突かれた後が血が滲んで痕になっているくらい本気度の高い激しい稽古であった。

写真については、一枚目は形意拳の猴形拳を手を斬られないようにコンパクトに構えた時のものだ。そこから4枚目の最後のインパクトの瞬間には馬形拳に変化しながら相手に打撃を加えている。

写真を見て初めに自分が感じた印象というのは、瞬間瞬間を捉えた連続写真にただ感心するばかりであった。間合いの確認にもなるなあなどと、上記のようなそんな表面的なところにしか目がいっていなかった。この時はまだ鍛錬会の意味が自分の中で消化しきれてないとしか言いようがない。

というのは、師父にお礼のメッセージを送ると、そこからの会話で途端に色んなものが徐々にハッキリと見えだしたからだ。

その時の重要と思われる会話を抜粋すると、

◆自分:
「写真をありがとうございました!
対峙している時の距離感などが確認出来てありがたいです!
打っている瞬間は必死さが伝わって来るような表情ですね。(^_^;)
よくこんな瞬間を連続で捉えていただけたものだと思います。」

◆師父:
「昨夜は色々な想いが巡って眠れませんでした。写真はおっしゃる通り、自分でもよく撮れたなと思うぐらい…戦場カメラマンの心境で必死に撮っていました。ビデオの流し撮りではそんな心境にはならなかったと思います。」

◆自分:
「確かに「良く捉えていただけた」どころの軽いものではなく、まさに「戦場カメラマン」のような心境という言葉にハッと反省させられる思いです。
まさしくその通りですね。
昨日は正直、無我夢中という感じでしたが、後になればなるほど、ジワジワと色んな事が意味を持って心の中に滲み上がってきます。」

というような次第である。

実際、この会話がなされた後であらためて写真を見ると、自分の状態が全く違った視点から見えてくる。

1枚目に関しては前述の通りだが、2枚目の自分の口許は心なしか笑って見える。猴の「狂」の字が滲んで現れているからか。4枚目の馬形拳も、馬の一つの大事なキーワードである「驚」の字が表情に出ているようにもとれるし、掌の表情にもはっきりと馬の相が出ている。

ちなみに、自分は元々人前が苦手で緊張しやすいタイプの人間だったわけだが、こうした緊迫した場面でもなぜか身体が自動的に動くということ。それが一つには動物拳の持つシステマチックな働きなのだろうとも思う。

しかし、そこで止まってはならず「動物の拳法ではなく、人としての拳法でなければならない」というのが師祖父からの大事な教えだ。

その意味が、今回の経験を通して少し理解が深まったように感じる。

例えば祖父江さんをはじめ、他門派の先生方は皆、まさに「火」の如き気迫に溢れていた。その気迫によってナイフを持った相手を圧倒する。

それに比べて自分はというと、写真を見てもお世辞にもそうした気迫は微塵も感じられはしない。

しかしそれも「陰陽」で良いのだと、後から思った。比べるものではないのだ、と。

相手の殺気を火の如き気迫で焼き尽くすのではなく、相手がどんなに殺気を放とうとも、自分の中をスッと通り抜けていってしまうような静かな水のような心…そうした「水の心」こそ、自分の目指すべき境地のように感じる。

気迫に対して無理に気迫で対抗しようとせず、むしろ、

もっと静かで穏やかに。
もっと澄んだ心で。

そうした考えの方が、自然と水の如く自分の心と体に染み入ってくるし、心身ともに軽やかになる感じがする。

それが自分の、人としての拳法。そんな手がかりを掴んだようにも思える。

こうした得難い学びが得られるのも、水戸の鍛錬会ならでは、だ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA