ノート

標準

自分が少林寺拳法や大東流合氣柔術を習っていた時には無かったのに、師父に教わり始めてから自然と習慣になったことがある。

それが「ノートに書く」ということだ。

誰かに言われた訳ではないし、それまでは特に必要性を感じたこともなかったが、気づけばいつのまにかそれが当たり前になっていた。

ノートの内容も、年を経るにしたがって変わっていく。

最初の頃と後半の頃では、書いてある内容や密度に雲泥の差がある。

ありがちであるが、初めの頃は見た目や形に関する表面的なことばかり書いていた。

それが、ノートも三冊目くらいになると書く内容も変わってくる。

例えば、師父とのマンツーマンで行われていた拝師弟子練習の様子というのは、まず最初に15分ほどザーッと講義を受けるのが常だ。

そのうち、いっぱいいっぱいになり「す、すみません。そろそろ限界です。ノート取っても良いですか?」と宣言して5〜10分ほどその場でノートにまとめる。

間に実技を交えながら、そんなことを2〜2回半ほど繰り返して、「やるべき事はわかったので、次まで練習しておきます」といって終わるのが、自分の拝師弟子時代の練習風景だった。

その頃のノートの特徴と言うのは、ポイントを抑えつつ簡単にまとめながらも、後から思い出し易いように工夫が感じられる。

内容自体、今、見直してもあらためて面白いと思うが、それでも現在の目から見るとやはり良い意味で月日の積み重ねを感じるものだ。

ここ何年かは、もうほとんど師父に教わる機会もなくなり、もっぱら教えることの方ばかりなわけだが、実は今もまだノートをとる習慣は今だに続いている。

というのも、前々回の「知命」の内容と被るのだが、自分の練習をしては気づきがあり、教室で教えていても気づきがある。

しばらくの間は、ノートを取る習慣は消えていたのだが、相模原の「白峰会」と愛知県の「宇童会」で、教えたことになるべく差がつかないようにと再びノートを取り始めてみると、普段の中にいかに多くの気づきや学びを得ているかと言うことにあらためて思い至ったのである。

今では、ノートを取ることはまず最初に自分の為以外、何ものでもない。なので、教室では生徒さんがメモを取っている横で、自分もまた教えながら、一生懸命メモを取っている姿が当たり前の風景になっている。(笑)

自分にとっては、教える事と学びを得ることには境目がなくなっている状態だ。あらゆる事がきっかけとなって、幾らでも気づきや学びは生まれてくる。

気づきや学びは、技の精度や深化に繋がり、套路はより理路整然と磨かれて深みを増していく。

それらをノートに記していくことは、喩えるならば壮大なパズルのピースを埋めていく作業のようだ。ピースが埋まっていくことで、徐々にまるで曼荼羅のような体系図が浮かび上がってくる。

太極拳も形意拳も八卦掌も、我々にとっては別物ではない。かと言って同じものでもない。内功武術という大きな曼荼羅の中で、それぞれの役目を持ちながら、それぞれに関係し合っている。

その中に「心、意、氣、力」「陰陽」「直と円と螺旋」等、色んな要素が意味を持って絶妙に配置されていることが、折に触れて見え隠れする。

ノート一つでもこんなにも面白い。我々の内功武術の味わいは、こうしたところにもあると思う。

ノート」への2件のフィードバック

  1. 加藤 博

    私もノートに記録を取ることは、先輩の先生方から教わりました。今も、当たり前のように記録ノートをつけています。児童生徒の成長の足跡をメモしております。その事により、成長の過程が見えるようになります。妻の「ひとみ」は、大学を卒業後、大変荒れた中学校の私のクラスの副担任となってどんな時も笑顔を忘れず教え子たちと接してくれました。その足跡が私のノートには残っております。ノートを取ることの大切さを実感しております。

    • UNO

      投稿いただいていたことに長らく気づかずに失礼いたしました。
      ノートを取るということは、何かしらを言葉にして文字や絵の中にまとめなければなりません。
      単に記憶のための補助というにあらず、良いノートとは
      それ自体が心の発露であったり、意志の現われであったり、感情の記録であったり…
      そんなノートは自分の分身であり、宝でもありますね。
      博さんのノートに記された足跡が、どんなに大切なものか…文章から伝わってくるような気がいたします。

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