師祖父の武術

標準

師祖父の武術をある程度使えるようになって思うのは、これはいわゆる格闘技の技術ではないな、ということだ。かと言って昔の戦場の技術そのままでもない。言ってみれば、ボディーガードや[金票]局といった者の技術だ。

例えば双辺太極拳の粘勁はどのように使われるか?または何のために必要か?といえば、相手を封じる為というのが一番分かり易い。では何のためにわざわざ相手を封じる必要性があるか、それはいかなる状況であろうかと思考を辿っていけば、我々の技術は、相手が突き蹴りで来ようと、暗器で襲いかかってこようと、初手から二~三手のうちには相手に貼りついて動きを封じてしまうものであると。それも相手を絡め捕るように詰将棋的に取り押さえてしまうか、動きを止めるように順々に相手の身体を壊していくように構成されているものだというところに辿り着く。
一般的な武道や格闘技とされるものが、試合のルールに合わせて形を変えていったり、もしくはルールの中で発展してきたのとは違って、ある意味、現代格闘技に対する研究はされつつも、1900年代後半という時代背景の中で育った技術がそのままの状態で受け継がれたのが我が門の武術だと言えるだろう。

そもそもがどういう技術か?ということについて「自ら知る」ということ。
それが、散打試合を経験したり、特に最近では義龍会主催の大会でST散打等で色々と技を実際に使ってみることを通して見えてきた。
自分の武術がどういうもので、どういう特徴を持ったものかがわかれば、試合においてはどうカスタマイズして、何を試すべきかも自ずと見えてくる。ST散打で技王賞やベストディフェンス賞という結果を得たのも、それはある意味、後からついてきたものだろう。
その結果はもちろん嬉しいものだが、それ以上に嬉しいのは、技がどんどん自分のものになっていく感覚や、理解が深まっていくことこそが、自分にとってはなによりだ。

ところで、自分は師祖父にはお会いしたことがない。なので師祖父とは伝えられた技を通して会話をするのみであるが、こんなにも研究・整理されているのは、普通の民間人にはやはりありえない内容であると思うというのが正直なところだ。

だが一方で、以前にも「護身の意味において、力がなく、また相手を傷つけるのが出来ないような心の持ち主が、咄嗟の緊急事態にいかに身を守るか?という難問に、師祖父が導き出した答えが込められているように自分には思えるのだ。よく護身術とは言うが、それで相手を攻撃出来る心の強さを持っているものは良い。しかし、本当に護身が必要なのはそうではない人達ではなかろうか?」と書いたように、師祖父の哲学や、弱者の味方に立つ視点を随所に感じることもまた事実だ。
だからこそ、明鏡拳舎には老若男女を問わず、また才能や体格の有無を問わずに、武術として真摯に学んでいる人達が集っている。
これが師祖父の「侠」の姿なのではなかろうか。

師祖父とは是非一度お会いして、いろいろ技について語り合ってみたいとも思うが、それが果たして叶うかどうかはわからない。

だが、自分の武術修行記を書いてあらためて思うのは、お会いする事が叶うにしろ叶わないにしろ、そこには必ず意味があるという事だ。

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