収徒拝師式に寄せて

標準

話は収徒拝師式の二週間前に遡る。

H.Kさんが病院でいつもの腫瘍マーカーの数値の計ると、数値が高くなっていた。
これで、7月20日には完治した身体で何の憂いもなく拝師式を行う事が出来る、そう思って喜んでいた矢先だった。

2014年7月17日

拝師収徒式の3日前。
サナトリウムでの療養から帰ってきて、何とか数値が少なくなることを祈っていた。
13時には診察が終わり結果の連絡が入るはずが、1時間、2時間が過ぎても連絡がない。
不安が心をよぎる。

ようやくメールが届いた。結果は…癌だった。

今まではなかったはずの肺にも2~3mmのものが出来ていた。
だが、それだけではここまで腫瘍マーカーの数値は上がらない。
最近、痛みを訴えていた左股関節のところに影の塊があった。おそらくこれだろうとのこと。

一瞬、またしても…という思いと、なぜ…という思いが交差する。
しかし、確かにショックではあったが、自分もH.Kさんも不思議と心は落ち着いていた。

「世にも美しいガンの治し方」というHPを見て、そのサナトリウムで治療を始めていたからかもしれない。
去年4月にステージ4の癌がわかって、抗癌剤と手術しか手立てがなく、
真っ暗闇のような状態だった時とは違い、今は、やれることがある。希望がある。

病院のベッドの上で、点滴に縛られることもなく、
身体も思いっきり動かせるし、のびのびと武術も出来る。

サナトリウムでの療養もまだ始めたばかり。

そう。全ては、「これから」だ。

2014年7月20日

師父、師父の義兄、弟弟子に見守られながら、予定通り「内功武術 明鏡拳舎」の収徒拝師式が執り行われた。

形式こそ道教的な要素はいろいろと残しながらも、宗教的な意味は一切排除して純粋に師弟の関係を結ぶ場としたのが、師祖父の代からの収徒拝師式だ。

前回も書いたものに補足するならば、我々は套路という、いわゆる型というものを通して先人の知恵や工夫の詰まった叡智を学びながら、現代においてそれを学び伝えていく者の責任において研鑽しながら必要に応じて変化させていくように、我々の収徒拝師式も同様に、形を通すことでただの気持ちで終わらせることなく、先人の教えや心をも同時に受け継ぐことであり、自らもまたより純粋に武術の門として完結するための一つの在り方を示したものだろう。

形は、単なる形ではないのが我々の武術である。

形一つ一つに、経験を通して代々積み重ねられてきた意味があり、智慧があり、想いがあるのを知っているからこそ

形だけではなく、
心だけでもなく、

それらをさらに昇華させた、心と智慧が合わさった形としてその意義を味わうことも出来る。

H.Kさんが明鏡拳舎の開門弟子となったことには深い意味を感じている。

一つには「この武術に必要なものはただ一つ。真摯に学ぶこと」という言葉、そのものの人柄であるという事。
その言葉が、けっして建前ではなく真実であることを証明してくれたのである。

そして、なにより「明鏡拳舎」の「明」の字の意味をはっきりと方向づけてくれたこと。
それは武術が持っている二面性である「生=明」の部分を、これほど体現し、感じさせてくれる人物はいないだろう。

「生=明」の音の響きは、そのまま「生命」にも繋がる。また「生命(せいめい)」は師祖父の名前とも韻を踏んでいて、なんとも言えない繋がりを感じるのだ。

自分の拝師式の時に、師父がどんな気持であったか。今、それをしみじみと全身でわかったように思う。
そうだ。きっと師父もこんな気持ちであったのだろう。

…いや、右腕に麻痺が残る手で、長い時間をかけて一文字一文字、想いをこめて証書を書いてくださった分、もっともっと深かったに違いない。

師父の境地にはまだまだかなわない。

だからこそ、これからもしっかりと門を育てていかなければ。

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