嬉しい日

標準

先々週の日曜日は嬉しい日であった。

それは、初めて弟子が教えている生徒に会うことが出来たからだ。
そして弟子が教えた太極拳をその生徒さんが打つ姿を見ることは、こんなにも嬉しいものなのかと、しみじみ感じ入った日であった。

もっとも、弟子のH.Kさんには正式な教練資格を与えているわけではないが、これには理由がある。

昨年の秋からの事だが、教室には参加出来ない方の為の別枠として、H.Kさんが教授代理として新たに教室を開く事を許可した。そこで習っているお二方は母娘で、喫茶店を経営している関係でどうしても時間が取れない事もあったが、もう一つの大きな理由として、娘さんの方は目が見えなかったのだ。全盲で光すら感じる事が出来ない。

つまり一生、先生の套路を見る事も出来なければ、自分がどういう姿をしているか確認する事すら出来ない。「学ぶ」という言葉は「真似ぶ」から来ているが、同時に様々な部分が連動して動く太極拳を、その学習の最も基本と言える「見て真似をする」という事が全くもって出来ないという事は、かなりの試行錯誤や工夫を余儀無くされるのは想像に難くないだろう。

H.Kさんは今までにも、療養先のサナトリウムで院長先生の奥様に請われて教えたり、やはり療養に来ていた作家でもあり監督経験もある才能溢れる女優さんを含め、短期間ではあるものの幾人かを教えたりすることになった時もあった。

その時も自分は自信を持って任せる事ができたし、お二人についての話を伺った時も、全盲という自分自身も未体験の難しさを思いながらも、やはりH.Kさんなら大丈夫だと信頼する事が出来た。H.Kさんには時に人一倍厳しく要求しながら、お互い真摯にこの武術に向きあってきた日々の積み重ねが、それを絶対的なものに感じさせてくれる。

教えるという事については、自分自身でも経験している事だが、いざ、この武術を教えるとなると不思議な事に次から次へと教える事が浮かびあがってきて、教える事に困る事がない。また、時と状況に応じて様々に工夫するだけの理解が備わっている事にもあらためて気づく。

むしろ教えれば教える程様々な気づきがあり、こんなにもたくさんのものを自分は習っていたのだと、振り返るのだ。

実際に自分が会ってみるまでに、H.Kさんから聞く新しい教室の様子は、実に興味深いものであった。

我々が大事にしている「まず自分の身体を感じる」ということ。それがまさに、教えた事に対して娘さんから帰ってくるリアクションや言葉は、「感じる」という事の純度の極みと言えるものであった。ナチュラルに出てくる感想が、まるで内功武術の核心部分について話をしているかのようでもあり、一言一言が実に豊かな内容に溢れていた。

H.Kさんが、工夫しながら確かなものを教えている様子が、その内容から活き活きと伝わってくるようだった。

そしてとうとう、初めてお二人の套路を見せてもらったわけだが、目の見えない娘さんが伸び伸びと太極拳を打つ姿に、どれ程感動を覚えた事だろう。それはまさに明鏡拳舎の太極拳であり、同時に、弟子の太極拳であった。

一回一回に進めるのは、ほんの僅かだ。身体にあちこち触れてもらったり、手で導いたりして、全体像を頭の中に構築してもらって、初めて次に進める事が出来る。

まだまだ最初の方の7勢だけではあったものの、ここまでに至る弟子の工夫と、真摯に教える気持ちが、その姿に込められていた。

我々の太極拳とは何か。
その問いに対する答えが、ここにある気がした。
あくまで武術として教え、武術として磨いていく。
そこに「義」がある。

我々の武術には、段や級もなければ、賞とも無縁のものだ。

だが、もっとも大切なものがここにはある。

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