弟子への返信

標準

自分がまだ門を率いる立場として新米だからか、師と言うものは常に自問自答を繰り返しているものだな、とつくづく思う。

教えるという事は、遠い道の先を見据えながらも、現状を受け入れつつ次の一歩を示すことだ。何か出来ないことが出来るようになったり、わからないことが分かるようになったという事は当事者にとっては大きな変化だが、大抵は全体からすればごく小さなことで、小さな結果を積み重ねてもなかなか周りからすれば、あまり進歩しているようには見えないものである。

だが、今回は一つの大きな結果を御報告させていただこうと思う。

「収徒拝師式に寄せて」の回に、2014年7月17日に弟子のH.Kさんが、肺に癌が、左股関節のところに腫瘍ができていたことを書いた。
癌による数度の手術を乗り越えての再発だった。もう、抗癌剤や手術に耐えられる体ではなかった。しかも抗がん剤については、最初こそ効力を発揮したものの、その後の2回目以降はほとんど効果がなく、副作用に悩まされるだけだった。
つまりある意味、これ以上医学的には手の施しようがない状態だったのだ。

だが、その癌の再発が発見される前から石原結實先生のサナトリウムにて温泉&食事療法や、いくつかの補助的な自然療法を行っていた。もちろん、その中には我々の内功武術も入っている。

石原結實先生に初めて診察してもらった時の言葉は、手術によって癌が無くなったことを褒められるような言葉ではなく、「予断を許さない」だった。思えばその時から…いや、一度癌になれば、必ずやこの「再発」という言葉が浮かばないときはないだろう。だからこそ、根本的な治癒が必要だという事を強く感じていたし、再発の事実を冷静に受け止めることが出来たのだと思う。

その間のH.Kさんの様子はと言えば、練習中、手術後の痛み等で時々休憩したりはするものの、とてもそんな大変な手術を去年と今年だけで何度もしたようには思えないような元気な姿で、毎回、宇童会に参加していた。

そして、とうとう同じブログに
「サナトリウムでの療養もまだ始めたばかり。
そう。全ては、「これから」だ。」
と書いたことについての経過報告を、書くことが出来る日が来たようだ。

以下は、会員向けの「宇童会だより」という、毎回の練習後にいただく感想に対して一人一人にあてた返信をまとめた会報メールであるが、今回そのH.Kさんにあてた今回のタイトルでもある「弟子への返信」である。

★【宇童会だより435】より

2014.12.13

癌は39度以上で死滅していきますからね。身体はしんどかったでしょうが、我々にとっては嬉しい兆候です。
なにより、今回の検査でHさんの身体から肺に転移していた癌が消えたことが、それを証明してますね。ようやく…ようやく待ち望んでいた“転”の段階に来ましたね!

12/11に届いたメールで

「なぜなら、先生、
信じていましたけれど、信じていましたけれど、信じられないことに、
肺のガンが消えていたからです。
(主治医の)K先生はこんなことはあり得ない・・・と。」

という部分を読んだ時には、「ここまで本当に長かったな」と思わずにはいられませんでした。

やめること、あきらめることはいくらでも理由が見つかりますが、信じて行動し続けることはとても難しい事です。ましてや、数度の手術の上の再発でしたから、その事実だけでも、信じ続けるという事の難しさを物語っています。

正しく信じる事の難しさはそれだけではありません。「信じる」というと、大抵の人が思い浮かべるものは「盲信」か「願望」がほとんどです。しかもその願望には、無意識に(しょせん叶わぬ)がついてしまっているものも少なくありません。

周りの勝手な哀れみやあきらめが渦巻く中で、正しく信じる人は、自分の病気や痛みだけでなくそういうものとも闘わねばなりませんから、一体どんなに孤独な闘いを強いられている事でしょう。

家族とも、友達とも違うのが「師弟」です。

師だからこそ一心に弟子を信じ、今の結果を見てどんなに奇跡のように見える事も我々には確固たる理合があり、選んだ治療法について周りが疑問や否定を投げかける中で、それを実践し続けてきました。

それをようやく皆にも、確かな、目に見える形として示す事が出来たのです。それは治療においても相乗効果をもたらしますから、こんなに嬉しい事はありません。
だから「転」です。

手術で色んなところを切除したりしましたから、もうしばらく身体はバランスを取り戻すのに時間はかかるでしょう。
しかし一歩一歩、大切に大地を踏みしめるが如く歩んで行く中に、内功武術もまた深く身体の中に染み込んで行くに違いありません。

★ここまで

どんなに奇跡に思えることでも、肺の癌が消えたということは、必ず他のところにもそれが起こる「可能性」を含んでいることになる。
0と1ではこんなにも違うものなのだ。

もちろん、最初に緊急の事態で命を救ってもらったのは紛れもなく手術のおかげであり、しかもその先生が天才的な腕の持ち主で、身体への負担を最小限に抑えていただいたからこそ今がある。その事についても感謝しているし、どちらが良いとか悪いとかではなく、どちらも必要なものだ。

だからこそ余計に、様々な治療に対して判断するということや、取捨選択をする勇気を持ち続けることは難しく、更に難しいのは、選んだものを痛みや心の恐れに負けずに、結果が出るのを待つための忍耐が必要ということだ。

いや、人の事より…もし自分なら、これらの痛みや絶望的に思える状況の連続に耐えることが出来だろうか?
弟子は一度も「先生にはこの痛みや苦しみはわからない!」というようなことを一切口にすることはなかった。

だから自問する。

自分は良い師であるか?
必要なことは全て教えてあるか?
それを身に付けさせる努力や工夫を積み重ねてきたか?
悔いを残すような教え方をしていないか?

なにより、弟子がこの武術を学んでよかったと心から思えるよう、自分自身が研鑽を積み重ね、結果を出しているだろうか?

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