武術修行記 ~合気道編~(3)

標準

◆合気とは?の答え

早朝。合気修行は朝6時から手取神社の境内を掃除するところから始まる。こんなところがいかにも修行っぽい(笑)。しかも、道場の畳の上で朝、目を覚ますのは、なんとも気が引き締まる気分だ。

練習は砂泊先生流の受け身を覚えるところから始まった。それも前回りではなく後ろ回り受け身から始めるのだが、なぜそれから始めるのかという考え方や、練習段階の方法が面白い。
後ろ受け身が出来たところで、通常の練習に参加させてもらえるようになるが、少林寺拳法の受け身の経験があるので、最初は戸惑ったもののコツはすぐに掴めた。これは良い後ろ受け身だなと思った。

いよいよ、合気の技の練習がはじまったが…これまたなにもかも戸惑ってしまう。そもそも力を抜くというのがわからないし、その状態で「ここで合気をかけて~」と、感覚的な練習がひたすら続くわけである。
たまに関節技が出てきてそれは少林寺拳法とも通ずるとことがあるが、合気道では少林寺拳法のようにガッチリかけあう事はなく、むしろ、相手の関節を伸ばして代謝をよくしてあげるのだという気持ちで、流れや感覚を重視した練習スタイルだった。今でこそ、その練習方法の良さとポイントがわかるものの、当時はなにか勝手が違う感じだったのだ。
道場の人は皆親切で、練習後もいろいろ教えてくれた。しかし、それでもやっぱり、力を抜くという事がわからなくて、同じく道場に寝泊まりしていた浜田先生に「やっぱり力を抜くという事がわからない」という質問をしたりもした。その時、浜田先生は人差し指をスッと出して、掌で押してみるようにと言われて、そのように押してみたがやはりビクともしなかった。

浜田先生に言われた言葉で一つ心に残っている言葉がある。それは「技は才能ではなく、誠実さでおこなうのだ」という言葉だった。

道場の人たちも皆、こういう練習を何年も積み重ねてその技があるのだ。いくら集中してやろうと一週間やそこらで、どれほどのものが身につくだろう。
今でこそ内功武術を教え、意識や感覚という事を当たり前のように語ってはいるが、「感覚」ということについて徹底的に悩んだ、この時の経験があるから今の自分があるのだと思う。

悩みながらもなんとか練習についていっていたものの、本当にただの体験で終わってしまうかに思えた時…自分が帰る前日の日曜日がちょうど各地から有段者が集まって練習する有段者会になっていたのだが、浜田先生からそれに参加しても良いという事、そして、砂泊先生がその有段者会で教えられるとのお話を伺ったのであった。

有段者会当日。まずは砂泊先生が有段者たちに一人一人次々に技をかけていく。その日おこなっていたのは、指取りで相手に指を掴まれたところを投げるという技だった。一通りかけ終えると先生の合図で、各自分かれて練習を行う。
自分はそれを見学していたわけだが、砂泊先生は、各々練習するのにまかせてこちらに歩いてくるのが見えた。そして、目の前に正座で座ると、有段者たちがそうしていたように先生の指を取って極めてみるように仰った。何が起こるのかと思いながら、言われたとおり指を掴んだ瞬間…、

「!?」

世界が上下逆になっていた。
自分が正座のまま、頭が畳の上スレスレに浮いた状態なっているのがその短い時間の中でわかった。

そして次の瞬間にはバターンと勢いよく一回転して畳の上に投げられた衝撃!

「…これが合気か!」

30年間、力を抜く事をひたすら追究し、貫いてきた技がそこにあった。

本当に「柔の極致」とも言えるような、まさに目が覚めるような技であった。

次回に続く。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA