精花太極拳

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二つの太極拳」で初めて話に触れた精花太極拳だが、現状の明鏡拳舎においては、すっかりなくてはならない存在になりつつある。

ホームページの太極拳の項目には、精花太極拳の紹介文として「精花太極拳が生まれた背景には、癌で亡くなった私の一番弟子が闘病の中で共に練習していた時の様々な経験が根本にあり」という文章を載せているが、あらためて、そうした経験がなければなぜ大切な双辺太極拳を再編纂しようなどと思うだろうか。

今更ながら、「双辺太極拳から八卦掌や形意拳の要素を抜いたら?」という発想に至ったのには訳があった。

それはまだ開門弟子が闘病中だった時のこと。癌で闘病中の弟子が悲しそうに言うには、点滴の針が刺さった腕で練習をしようとすると、双辺太極拳の最大の特徴でもある「螺旋」があるが為に、

「点滴の針が腕の中でよじれて痛い」

と言うのである。

そもそも点滴の針が刺さった状態で練習しようということに無理や限界があるのかもしれない。

だが自分がこの言葉を聞いた時、どんなに悔しく愕然としたことだろう。この時の自分には、弟子の真摯な気持ちに答える言葉がなかった。

弟子が亡くなったあともずっとその言葉が頭を離れることはなかったし、この言葉こそが精花太極拳を生んだと言っても過言ではない。

だからこそ、自分にとって精花太極拳の前で言い訳は出来ない。老、病、障がい。どんな壁があろうとも、弟子の頑張っている姿が瞼に焼き付いている限り、あらゆる工夫をしながらでも我々の太極拳の愉しさや素晴らしさを育んでいきたいという想いがある。

一方で、もう一つ発見もある。

その後、精花太極拳を研究していくうちには消したはずの螺旋が全く消えたわけではなく、今までと違う形で入り込んでいるのだというのがわかってきた。八卦掌も形意拳も同様に、気づかないうちに別の姿に変わっていつのまにか緩やかに溶け込んでいることに気づく。

やはり、双辺太極拳は双辺太極拳なのだ。

双辺太極拳から精花太極拳を再編したことの意味とは、原理原則を現実の場で活かすということ。それもまた一つの「応用」だ。双辺太極拳は武術的な視点においても応用が多彩であればこそ、体の弱っていた弟子の為に双辺太極拳を応用したものなのだと捉えると本質が見えてくる。

それによって、精花太極拳を練ることで不思議と八卦掌にも形意拳にも良い影響が現れることの理由も見えてきた。何より双辺太極拳もまた、精花太極拳を身体に通した後は動きが変わるのを如実に実感する。これは全く予想もしなかった角度からの深化だった。

しかしそれもまた「真摯に歩んで行けば自然と今の自分が乗り越えるべき課題が現れる」という事と、その結果であろう。

自分にとってはまさにそうした存在であるように思えるし、生徒達にとってもまた必要があって生まれたものなのだということも実感している。

武術の道を歩んでいくという縦の糸と、その過程での出会いや関わりといった横の糸とが複雑に折り重なって編まれた太極拳。おそらく他人には興味を持たれることもないだろうが、我々にとっては内功武術という大きな模様の中に描かれた大切な一部だ。

 

Iさんの太極拳

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宇童会の生徒の話をする時に、繊細な感覚の持ち主ということでプロのギタリストさんのYさんの話を時々あげるが、もう一人、繊細な感覚を持つ生徒に、全盲のIさんがいる。

基本は個人レッスンの形で教えているのだが、彼女との会話は、とても面白い。彼女との会話の内容はまるで内功武術的な話のオンパレードだ。

ものが見えないからこそ、見た目の形や雰囲気に惑わされることがない。動きそのものを見る。まるでソムリエがワインの味や香りを語るが如く、触れた掌からポン勁と捻りが紡ぎ出す動きの変化や性質を語り合うその面白さは、まさしく「ワインを愉しむ」かのように、「太極拳を愉しむ」といったような面白さである。

形としては一見似ていないような動きでも、「この動きは、○○と同じですね!」「この動きは○○の変化した感じですね!」と、長年練習を積んだ方と話すような会話が最初から普通に出てくるし、動きを導けば、「何この動き⁉︎それに、すごく身体が動く!」と誰よりも打てば響くような反応を示してくれる。

こうしたダイレクトな反応というのは、教える側としても嬉しいものだ。

逆に、太極拳を教える時にただ「この動作では爪先の向きを何度にする」「手をどの位置に出す」というような説明や動作だけでは、「これが太極拳です」と言われても、「形を見る」のではなく、触れて「動きの本質を見る」彼女にとっては、体操やダンスとの明確な違いは感じられないだろう。

彼女にとっての太極拳らしさとは何か。

それは、太極拳の動作にはストーリーがあるということ。

もちろん、体操やダンスにもテーマやストーリーを設けるのは当然だろうが、それらとの違いは何かというと、触れた掌から伝わる筋肉の動きや繋がりや変化といった皮膚感覚そのものにも流れがあり、ストーリーがあり、リズムがある、ということだ。

ゆっくりふんわりと動く中に、全身の繋がりによって起こる複雑な変化。川の流れのように滔々と変化し続ける動作と共に身体に起きている起承転結を、直に触れながら皮膚で感じとるもの、それが彼女にとっての「太極拳らしさ」なのだ。

そのIさんは今、事情があって休会しているのだが、99勢の第三段・94.轉身左劈面掌まで終わっていて本当にあと少しのところまで来ている。

亡くなった弟子が土に種を蒔き、それが今、スクスクと成長しながら花を咲かせようとしている矢先のやむを得ない休会で、自分が宇童会に通っている間に99勢を教えきらなかったのは残念ではあるのだが、きっと遠からず99勢に辿り着く事は間違いない。

そして、その花が実った時にはきっと我々の内功武術に優しい彩りを添えてくれることだろう。

二つの太極拳

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最近、もう一つの太極拳にはまっている。
一つはもちろん我々の双辺太極拳だ。
陳式、楊式、呉式を研究された陳pan嶺先生が、形意拳・八卦掌の要素を加味して創始し、張榮明師祖父がそれぞれの要素をより際立たせた形で新たに編纂した、自分が本当に素晴らしいと惚れ込んだ太極拳である。
ではもう一つの太極拳とは、なにか。
もしかしたら他派のものか?というと、そうではない。
最近、ハマっている太極拳。それは、あえて「八卦掌と形意拳の要素を抜いた双辺太極拳」なのである。
このブログを始めたときは、確かに形意拳と八卦掌については、より純度を追求していくというスタンスであったが(注:それは三拳融合を試みられた中で絶対的に混じり合わないものがあり、その混じり合わない要素をその拳法のオリジナリティと捉え、それらによって構成されていると言う意味で)、太極拳だけは三拳が含まれていることこそ双辺太極拳の特徴であると思っていたし、そこに独自性や誇りと感じていればこそ、形意・八卦の要素を抜くと言う発想は全くなかったといってよい。
ところが、
「八卦掌と形意拳の要素を抜いた双辺太極拳」
という発想が、ふとしたきっかけで生まれた。
それは、軽い気持ちと思いつきで始めた作業ではあったが、実際にやり始めてみるとその面白さにどんどんはまっていくのを感じた。そして不思議なことに、シンプルな太極拳にしていけばいくほど、かえって三拳の繋がりが感じられるのだ。
違っているのに、かえって繋がる。
これは意外な効果でもあったし、予想外の展開でもあった。
また、いつもの双辺太極拳とは違った効果もあるのも、いろんな人の感想からわかってきた。
我々の双辺太極拳は、段階が進めば進むほど八卦掌の要素が強くなっていくが、それをあえて「抜く」という方向に働かせるのはまさに逆転の発想であろう。
しかし、こうしたフレキシビリティを持つというのも、我々の三拳弊習のスタイルとも言えるのかも知れない。
ちなみに、三拳融合をはかった我々の双辺太極拳から形意拳と八卦掌の要素を抜けば、純粋な太極拳が現れるのかと言うと、そういうわけでもない。
確かに技の中には一部、先祖がえりのように、陳式や楊式に出てくる形に似たものに変わってしまうものもあるが、やはり全体としては、いずれの太極拳とも違う「我々独自の雰囲気と理合いを持った太極拳」と言えるだろう。
それら技の変化の過程を味わうことが出来たのは良い経験と気づきであったし、何より、我々の太極拳の解釈とはこうなのだということが、より明確になってきた。
明鏡拳舎では、普段の双辺太極拳と区別するために、太極拳的なエッセンスを学ぶ為の套路と言う意味で「精花太極拳」と呼んでいるが、その精花太極拳は素直で非常にシンプルでありながら、生徒たちからの評判も良い。
というより、冒頭で書いているようにまず自分自身がはまっている。(笑)
素直でシンプルな精花太極拳。
これを亡くなった弟子に見せたなら、きっと「うわーっ」と目を輝かせて喜んだに違いない。常に「痛み」に苛まされ、歩くことすら難しい状態だったであろうに、この武術で培った繊細な重心移動や立ち方で、「歩く」ということを「再現」していた弟子。
この精花太極拳がもっと早く生まれていたらと、ふと考えをめぐらせてしまう。
「成長 ~ 日記より(1)~」に書いた、弟子の太極拳のこと。
「日曜日の午後、お見舞い&個人レッスンでH.Kさんの病室に伺った時、外の光が射す白い壁の部屋の中で、H.Kさんの太極拳を見せていただきました。一切の無駄のとれた、素直で、美しい太極拳でした。点滴のチューブを付けながら、手術したばかりの身体で、自分の身体を感じながら丁寧に丁寧にこの太極拳を打っているH.Kさんの姿が目に浮かぶようでした。それは、第二の站椿を形をとりながら、小さな歩幅で行う、動きの少ない太極拳でしたが、真面目に地味な站椿をする事からはじまり、僕が教えた通り真摯に意識して感じながら行っている姿が、H.Kさんが積み重ねてきたもの全てが、そこに見えた気がしました。套路は嘘をつきません。僕は、こんなに尊い太極拳を見たことはありませんでした。」
その弟子の太極拳に応えるような太極拳が、今になって自分の中に出来上がった、そんな気がしてならない。
そう。弟子や学生も含めて、生徒たちがいなければ生まれてこなかった太極拳だ。
例え周りにとっては価値は感じられなくとも、我々はその効果を知り、様々な意味を持ちながら大切に思う。
一人一太極拳。
そんな太極拳があっても良いだろう。

ポジショニングと内功武術

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ポジショニングはポジショニングでも、今回は介護の「ポジショニング」に絡めた話である。

介護と武術というと、巷では古武術の技術や身体操作を介護現場に活かすということが何年も前から時折話題にあがっているので、今更と思われるかもしれないが、今回の話は介護の技術を武術にという話だ。
以下は、ふとした思い付きから最近、教室で初めてポジショニングの視点から教えた時の生徒の感想である。

◆「今回の先生の、介護でのポジショニングのお話しを含んだご説明で、自分はなぜあんなに新鮮にかんじたのかな?と考えておりました。僕の中で変わったのは、練習の時等、その時点での自分にとっての答えが、自分の中にあるという感覚が増えた気がします。太極拳もゆっくりと練習してみましたが、ゆっくり行う目的を、以前より感覚的にも持てて嬉しく思いました。」

読んだだけでは何となく流れてしまうかもしれないが、この感想は、クラシック音楽のプロのギタリストであるYさんが書いてくれたものだ。

非常に繊細な身体感覚を持つ彼の言葉は、まさに自分が教えながら感じた感想そのもので、ある意味、初学者が掴みにくい内功的な部分が、ポジショニングのアプローチを使うと、彼の感想のようにとてもシンプルに捉えることが出来るのだ。

同じ意味の事は普段の練習でも教えているし、推手含め、具体的な練習方法もある。だが、それでもなお新鮮さを感じ、効果があったということは、そこに新たなヒントがあるということだ。

そもそもそのポジショニングとは何か?という話については、このブログを書くにあたって「わくわく直観堂」さんのホームページを参考にさせていただいた。

http://www.waku2chokkan.com/hpgen/HPB/entries/101.html

そこに書いてある部分を抜き出してみると、

ポジショニングは、「目的を達成するために身体各部の並びを整えてふさわしく、好ましい姿勢、体位を実現する。その姿勢・体位は安全で快適であること。」を意図したものであるということ。

またポジショニングの肝は、安定して体位を保持する、筋緊張を緩和する、体圧を分散する、動き出しの起点をつくる、という事にあるということ。

こうしてみると全体的な雰囲気として近いものを感じるかと思うが、このポジショニングの技術は、内功武術における「まず自分の身体を感じる」ということについて、新たな視点からのアプローチになりえると思うのだ。

普段よく思うことは、初心者に「まず感じる」と言っても、「何を」感じれば良いのか?それが難しい。感じるということは実感してわかってしまえばシンプルな話なのだが、わからないうちはその要求は非常に曖昧で抽象的なものだ。

ところが、ポジショニングの技術は、その導入の難しさを容易にしてくれるのである。

もちろん、それが初心者に限らず、我々にとっても意外な効果をもたらすことは、Yさんの感想でも明らかだ。

では、その「感じるものとは何か?」。

一言で言えば「力」だ。

「心、意、氣、力」の「力」。

そしてそれは、「大きな力」ではなく、「小さな力」。

介護の技術を武術にと言えば、「心、意、氣、力」の四つの視点からすると「心」がテーマになるのが相応しい気がするのだが、今回のこの話は、それが対極にある「力」からのアプローチの話になるのが面白いところだ。

だがそれも、相手の状態を理解する、相手の気持ちになろうとして生まれてきた技術と考えれば、それが「感じる」為の具体的な技術というのもしっくりくる。

重度の身体障がいを持った方というのは、コミュニケーションをとるのが難しい場合も多く、介助者が状態から想像するしかない。そして状態をより正しく把握する為に考案されたのがポジショニングの考え方とも言えるであろう。

ポジショニングとは、確かに簡単に言ってしまえば「楽な体勢を確保するための技術」であるが、その状態を確保する為の過程には、上述の知識のもとに相手の様々な「力」を感じながら、状態を探っていくことが不可欠だ。

「力」によるアプローチから相手の状態を理解することによって、介助者の思い込みによらずに、より適切な体勢を確保することが出来るのである。

我が門には「極端にしてみることで、気づきがある」という教えがあるが、内功武術の目で見ればなんのことはない、自分がポジショニングを行っている現場とは、身体や力を感じるということにおいて、あくまで同一線上にある一つの極まった状況と捉えることが出来るであろう。

自分の場合、少林寺拳法や大東流においても、整体の基本的な考え方を教わった事で技が大きく変わった経験をもっているが、結局は、治す事も壊す事も表裏一体というように、これもまた陰陽だということだ。

内功武術はつくづく繊細で緻密なものだと思う。

繊細で緻密というと、こと武術においてはこれらの言葉を聞いた場合、大抵の人が思い浮かべるのはどちらかというと「繊細で緻密だが、脆い」というようなネガティブなイメージではなかろうか。

というのも、繊細で緻密なのは「巧さ」の表現であって、「強さ」とは結びつきにくいからだろう。

だが「繊細で緻密だからこそ、構造的にしっかりして無駄がなく効率的」なのが内功武術である。

それは強固な建造物が、資材の一つ一つを吟味し、緻密に計算された上で、繊細な作業によって造られているようなものだ。

このブログでは、内功武術のブログにもかかわらず呼吸法や氣や経絡などと言った、いかにも中国武術的な話はほとんど出てこない。

だが、それだけでない内功武術がある。

理にかなった動作や武術というものは、それだけでたくさんの語るべきものをもっているはずである。

「心、意、氣」のみならず、「力」についてこんな風に語れることこそ、内功武術ならではの味わいではなかろうか。

「陰陽」 ~共通性と違いという視点から~

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我が門では太極拳、八卦掌、形意拳の三拳を弊習する学習システムであるがに故に、様々な形での陰陽の関係に気づくことが出来たことはこれまでにも触れてきたが、最近、それは三拳に留まらず、自分がこれまでに学んできた日本の武術と中国の武術ということにおいても大きな意味でやはり陰陽の関係に捉えることが出来る事を、おぼろげながらもあちらこちらに感じられるようになってきた。
また、見識を広める過程で様々に触れさせていただいた武術においても、同様に、様々な陰陽の関係を見る思いがするのである。

それは共通性という話でもなければ、単なる違いといった話でもない。まさに陰陽と言うべき関係性なのだが、それを見出すことでより理解が深まるように思うのだ。というより、そもそもがそうした発想によって深めていこうというのが、我々の練っているものなのかもしれない。

なによりまず、自分が様々な武術を通じてもっとも関心があるのは「共通性」よりも「違い」、つまりそれぞれの武術の特徴である。もちろん、ただ小手先の技術の違い等の話なら幾つ挙げても意味がない。どのような特徴でどのように技術が体系付けられているのか。それこそが自分の言う「違い」の部分だ。逆に言えば、その体系を一旦理解したならば、小手先の違いと思えた技術もまた必然的な理由として見えてくる。

例えば、同じ形意拳でも、ある先生のところで交流させていただいたときには、根本に置く原理原則の違いから、全く別の技術体系になっていることを再認識した。その原理原則の違いとは正しいとか間違っているとかではなく、どちらを選択するかというまさに枝分かれ的な内容のものである。事実、自分の門派とは違ったやり方で、それを活かすための素晴らしい技術や、様々な工夫が散りばめられた体系が構築されているのをみると、一度、自分の原理原則をそちらに切り替えて、ドミノ倒しの如く全てをひっくり返してみたい衝動に駆られてしまいさえする。ましてやその先生が、現代における達人先生の一人と、誰もが認める存在とあってはなおさらだ。

そうした確かな技術体系と功夫の前に自分自身が晒された時、どちらが正しい形意拳とかそういった視点はもはや無意味であり、その違いの中に何を、如何に、学ぶかだ。むしろ虚実分明と言おうか、違いや特徴が明確になることは、即ち、学びや気づきでもあり、それが単なる違いから陰陽の関係に落とし込めた時、より納得した上で繋がりを感じることができるように思うのだ。

そこに至るためには、自分の形意拳を突き詰めていればこそであるし、それが出来たのならば、自分の中でそれを併せ持った姿が、つまり、何をもって形意拳かというビジョンもまた、自然と自分の中で鮮明になっていく。

もう一つ例を挙げると、最近でもあったことだが、日本の雑誌等においては、八卦掌は大東流や合氣系の武術と似てる似た感じの武術と紹介されることが多いように思うのだが、自分は全くそうは思わない。

もっとも八卦掌自体が、開祖である董海川の弟子からして異なる風格や内容の八卦掌にそれぞれ分かれているくらいなので、他門派においてはそのように感じるものであったとしても不思議ではないことも理解している。特に程廷華はシュワイジャオを修めていたこともあり、そうした成り立ちからしても柔術系や合氣系の武道と結びつきやすいだろうし、また、実際にそのように技術体系を構築しているところもあるのではないかと思われる。それは、先に述べたように尹福が羅漢拳を、程廷華がシュワイジャオをベースに、それぞれの八卦掌を構築して行ったことを考えると、少しもおかしなことではない。

一方で、自身の八卦掌はそういった様々な八卦掌ともまた違った追求の仕方をしていることは自覚しているので、余計に全くの別物に思えるのだろう。

しかし、自分にとっては、大東流や合氣系の武術と似てると感じない八卦掌だから良いのだ。

少なくとも自分の中で八卦掌という武術についてハッキリとその像を描くことが出来るし、迷いなく追求することも出来る。

違うからこそ追求し甲斐があるし、そこに陰陽を感じ取れればこそ、繋がりもまた感じる事が出来るのだ。

守・破・離

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しばらく前から形意拳の技のかかりが変わってきているのを感じていたが、最近になって、これもまた八卦掌と太極拳が形意拳の中で陰陽のように融合した一つの現れ方・成果なのだということに気づいた。
それも枝葉の話ではなく、起鑚落劈という形意拳の根幹の部分での話で、しかも、八卦掌と太極拳の特徴もまた存分に活かされているのが面白い。技の可能性も広がっていくだろうし、その観点でもう一度五行拳から見直すのも良い。また一段、五行拳も深まって戦略の幅も増えそうだ。

しこうして、その気づきとは、捻りの方向とその変化がもたらす現象についての話なので、それだけを取り出してみれば決して特別なものではない。
しかし、捻りが何にどう繋がって、どのような展開を見せるのか。それが技術体系だ。ただ「捻り」と言っても、太極拳、八卦掌、形意拳で、その意味も目的も異なれば、質も異なる。
が、異なるからこそ、それが上手く組み合わさった時には意外な効果をもたらすものだ。

以前、三拳弊習について書いたときには、形意拳の中にこんな太極拳と八卦掌の融合があるとは気づいていなかった。これだから三拳弊習は面白い。不思議なもので、三拳の特徴を際立たせるべく分けようとすればする程、その先でますます密接に結びついていく感覚がある。

きっと何年後かには…いや、三拳弊習についてはこれからも何度となく、その段階での三拳を語る事になるだろう。

もっとも、このように書くとある人はこう思うかもしれない。「このブログを書いている人物は自分の考えを書いているだけで、三拳について深く習ってはいないのか?」と。

そうではない。

深く教えていただいたからこそ、次々と色んな事をテーマに掘り下げてみようという発想が浮かんでくるし、自分が出来るようになって、初めて見えてくるものもある。何より、こうした気づきや発想と練習の繰り返しによって自身の理解と技を深めていくことこそは、そもそもの武術の醍醐味ではなかろうか。

日本の伝統芸能には守破離(しゅはり)の考え方がある。

守破離は元は
「守り尽くして、破るとも、離るるとも『本』ぞ忘るな」
の守破離をとった言葉だそうだ。

守り尽くしてとは、自分で言うのもなんだが、我ながらまさにその通りだと思う。師父から教わった事を大事に守り通し、実践してきた。だから、今があるのだ。

だが、そこから先の破と離については、ネットで改めて解説を読んでいると、どうにもしっくり来る説明が見つからない。

破は、他流も研究するとか、セオリーから外れてみると説明しているものもあれば、離は、型から自由になり、型から離れて自在になることができる、というような内容である。

だが、それでは何のための型であろうか?と思ってしまうのである。型はその流派の理合いであり、そこから外れてしまったら、破ではなく単なる技の破綻だ。

どんなにセオリーから外れようとしても、人間の身体の構造は変わらないし、あらゆる物理法則から解放される事はない。その中で動かなければならないし、それを使いこなす為の理合いこそが型のはずである。

では、自分にとってしっくりくる守破離とはなんだろうと思い考えてみると、浮かんできたのは「三層の功夫」だ。

明、暗、化。この3つの段階の考え方こそ守破離に当てはまるのではないだろうか。

【守ー明】
・明らかに目に見える形で、一つ一つしっかりと教えを守っていく段階である。それによって理合いを学んでいく。

【破ー暗】
・理合を一通り学んだ上で、自身と向き合い、個人差による微妙なズレを擦り合わせていく時期であり、様々な気づきや工夫を成功・失敗を通して試行錯誤する時期とも言える。それは一見、形が崩れているように映ったり、勝手な事をやっているようにも映るが、自身と型の統合や、技の発展があるのがこの時期と言えるだろう。
型から外れているように見えても、あくまでその人が見つめているのは基本であり、型なのである。

その一方で、実際に使ってみようとして上手くいかない経験を多く積むのもこの頃だろう。しかしその原因というと、ほとんどは力に頼ってしまったり、普段練習していることと違う事をやってしまったという感じではなかろうか。上手くいかないからといって型を捨てるのではなく、他に求めるのでもなく、まず破るべきは、自分の中にあるあらゆる固定概念である。

【離ー化】
・どんなに自由に振舞っても、型(理合)から外れる事がないくらいに、経験の積み重ねによって、型が身体にも脳にも染み込んだ状態である。また、理合いが身体に染み込んでいるからこそ、自在にも動けるわけだ。
また、そこまでに至る自身の様々な工夫や経験を伝えようと思えば、必ずや基本の中にその考えもまた反映されていくだろう。なぜこの基本が大切なのか、基本で何を学ぶべきなのか、と。もちろん、それは套路にも言える。

こうして書いてみると、あらためて感じるのは、

自分が教える太極拳とは、
師父が教えてくれた太極拳でありながら、
師父の太極拳ではなく自分の太極拳であり、
ではその自分の太極拳はと言えば、
自分の太極拳などというものはなく、
ただ「太極拳」なのである。

ということだ。八卦掌や形意拳も然り。
守破離の元になっている言葉にある最後の言葉。「『本』ぞ忘るな」とはそういう事でないかと、自分なりに考える次第である。

形意拳雑感

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最近、形意拳が面白い。自分にとって「温故知新」とは、まさに形意拳のことだ。

拳を練りながら身体で感じる拳理やその中に含まれる哲学は、まるで悠久の大地と歴史そのものを映し出す鏡のように、全てをぎゅっと凝縮して構築されたかのような世界観を持っている。

動物から人への進化。そして人は道具や武器を持つようになり、龍や麒麟のような想像上の生き物をも生み出すような創造性をも得てきたのである。このことは、例えば十二形を挙げると、動物を姿を模倣したり獣性を求めたりすることは「あえて退行することで原始の力を得ようとする」ものにも思えるが、先の視点から見れば、形意拳そのものが「進化をテーマにした拳法」だと捉える事もできるであろう。

事実、我が門では師祖父から代々、形意拳はあくまでも「人」の拳法だと、また「そうでなければならない」と学んできた。

そもそも三才式(三体式)は天・地・人を表す。
そして五行拳は、姿は武器を持った人類、そこに含まれる五行の内容・思想は人の知恵そのものだ。

起鑚落劈のリズムで進退を刻みながら「金水木火土」の五行を展開し、十二の動物の理を身で読み解きがら、天地の間に立って伸び伸びと拳を打つ。「人」と「原初の根源的な力」が同居するようなこの味わいは、形意拳ならではの愉しさだろう。

太極拳の全てを包括するような「陰陽」の妙とも、八卦掌のまさにDNAを思わせる究極的な「螺旋」の展開とも、また違った味わいである。

我が門の武術は、一度は三拳融合を試みられたわけだが、この全く異なった甲乙つけがたいそれぞれの味わいが無くなってしまうのは非常にもったいない話なわけで、折に触れるたび、この結論に辿り着いてくださったことをありがたく思う次第である。

ところで、もう少し身近な話題としては、形意拳と言うと日本では時折「シンプルな拳法」だとか「単純だが繰り返し練ることで絶大な威力を得ることが出来る」というような紹介をされているのを見かける。

が、自分から言わせれば形意拳とは精緻かつ精妙な拳法であり、その姿はまるで荘厳な建築物を思わせるようで、拳理も含めて極めて職人技的な拳法だという印象がある。

紹介者にシンプルと言わしめるその代表的な技が「崩拳」だろうが、自分が学んだ崩拳はかなり具体的で細かな技術や要求があり、とてもではないがシンプルとか単純とか言える様なものではない。いわゆる「真っ直ぐ突いているように見えるパンチ」の中では、かなり技巧的な部類に入るのではなかろうか。

また、あるところでは、初心者が最初に劈拳を習うと「こんな打ち方で本当に威力が出るんだろうか?と思ってしまう」というような内容にも出会う。

形意拳で最初に習うであろう劈拳は、実に特殊と言えば特殊な動きである。
なぜ初心者には敷居が高く感じるこの動作がスタンダードに据えられているのか。

しかし、ここで考えて欲しい事は、一つには「わざわざ威力が出ない形を要求するであろうか?」ということ。
そしてもう一つには、「もし、その疑問に思う形をひたすら繰り返せば、本当に威力が出るようになるのか?」ということである。

結論から言えば、その形で威力が出せるのも、いつまでたっても威力が出ないのも、劈拳の中に含まれた幾つかの理合いを、しっかりと履行出来ているかどうかに他ならない。それを習って理解するか、自分で気付きを得るかしない限りは、そこへたどり着くことが出来ないのは当然と言えば当然である。

その上で、あらためて「伝授」とはどういうことか?

師が手本を示し、実際にそれを体感しつつ理を学び、自分自身の気づきも重ねながら、やがてそれを自分のものとする。
そしてその自分もまた、後から続く者に手本を示し、実際にそれを体感させ、理を教え、気付きを得させながら自分がそうしてもらったように確実に体現出来るようになったという事をもって、それが伝えていくということだ。

そうした歴史の流れの中で、自分に、今、確実に言えること。

それが冒頭の

「最近、形意拳が面白い。自分にとって「温故知新」とは、まさに形意拳のことだ。」

なのである。

五行奇門対打

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久々に五行奇門対打をじっくりと練る。
「五行奇門対打」とは、我が門に存在する形意拳の対練法で、その中で得られる感覚は、いかにも我が門の形意拳ならではの味わいだ。

太極拳や八卦掌が混じるわけではないが、しかし、その功夫なしには完成は遠くなる。
そして、それは同時に我が門の太極拳や八卦掌でなければならない。

そんな独立独歩の風格も、武人としての師祖父の姿を思わせる。

ところで、ある人は言うかもしれない。「いつもいつも、それ程に独自の風格を強調するならば、それぞれ太極拳、形意拳、八卦掌の名前を名乗らずに、新しい名称を考えれば良いのでは?」と。

だが、我々にとってはそれぞれが、太極拳、形意拳、八卦掌そのものなのだ。
形や内容を極力変えずに受け継がれてきたものもあれば、伝承の中でそれぞれ研鑽が積み重ねられてきた結果、今に残るものもある。
技や内容の良し悪しは各々が判断してくれればよい。

また、周りを見回したところで大同小異を持ってわざわざ名称を変えるところは少ないであろうし、そもそもそれが出来るくらいなら、何々派、何々式といった様々な流派が生まれることもなかったであろう。

本題に戻るならば、形意拳の対練套路というとまず浮かぶのは相生克拳や、安心(身)炮といったところか。だが、我が門で行う対打は、もちろん幾つかの段階練習はあるものの、対練套路としては五行奇門対打だけだし、套路にしても師祖父が雑式錘を練功套路から外したように、例えば、形意拳の中級套路とも言われる十二肱錘もまた、我が門の理合に照らし合わせると、練功套路から外すか、一部短くしても良いかと考えたりもする。

足していく事は工夫や努力の結果として分かり易く周りにも認められ易いが、その反面、削ぎ落としていく事は、それを編み出し大切に受け継いできた先師達の努力を踏みにじる行為に等しいとも言えるし、以前は自分自身も「何故、他所の形意拳で当たり前の様に行っている相生克拳や安心(身)炮をやらないのか?」という不安があった。

しかし、今はネットの動画などでそれらがどういうものかを見る事も出来るし、何より、実際に五行奇門対打や我が門の武術を深く理解した後には「なる程、確かに我々の形意拳に必要なものは、師祖父の五行奇門対打なのだ」という事が良くわかる。

前回、違う話で書いたように「あれも良い、これも良い」と付け足していく事は簡単だが、本当に難しい事は「切り捨てる」ということだ。自分たちにとって必要なものを見極め、取捨選択していくということだ。

だからこそ、これ程素晴らしい武術を我々に授けてくれた師祖父が、熟慮した上でそれをやらなくても良いと判断してくれたということは、後から続く我々にとって非常に安心感を与えてくれるし、自ら判断し決断していく事を教えてくれる。

そして、その事を通して師祖父自らが、自分たちが進むべき道を示してくださっているように思えるのだ。

五行奇門対打の中に入っている「奇門」の文字。その技の妙ももちろんだが、その名称もまた、味わい深い。

連散手

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愛知県の教室「宇童会」は、実に女性が8~9割を占める。しかも、度々記述しているが、元々が武術どころか太極拳にすら縁遠い方がほとんどだったのだ。

なので用法的な練習については、満四年を過ぎるまで連散手はおろか、たまに技の意味として用法を紹介するか、ちょっと体験してみるという程度であった。

およそテレビなどでの太極拳のイメージしか知らない人にとっては、太極拳に対人稽古というものがあることに戸惑いを覚える方も多く、推手ですら亀の歩みの如くであった。段階を細かく分けてそれぞれの目的や意味を教えつつ、簡単な攻防の意味なども少しずつ交えながら、じっくりじっくりと、しかしあくまでも武術、もしくは武術に繋がるものとしての気持ちは忘れずに練ってきたのだった。

本当に、初めたばかりの頃は、まずは相手と向かい合う緊張感をなくしていく、そんなようなことから慣らしていく感じだったと思う。

それがようやく、ここにきて連散手を本格的に始められるようになってきた。特筆すべきは攻撃側を習っても、愉しめる余裕が出てきたことだろう。

また、今まで練ってきた太極拳が、連散手を学ぶことによって、急に活き活きとしたものに思えてきたようだ。これまでに説明してきた細かい注意点の意味に、あらためて一つ一つ納得するように、套路の雰囲気が変わっていく。技を知ることによって、根節、中節、梢節の意識が変わり、全体の流れもよりイメージし易くなるのだろう。
站椿の意味、推手の意味、それらが急に実感として感じられる瞬間だ。

もちろん、ここに至るには様々な工夫もしてきた。

それによって明鏡拳舎のルールとして定着したことの一つが、連散手・攻撃側は、あくまで「先生」役という位置づけを明確にしたことだ。

先生役である攻撃側は、生徒が攻撃に対して太極拳を正しく使えるよう導くために、正確にゆっくりと攻撃を行わなければならない。

ゆっくりというと、そんな攻撃を受けても意味がないと思うかもしれないが、ゆっくりでもまずは「太極拳を使ってみる」「太極拳で攻撃を捌く」という経験をしてみなければ、始まらない。

仮に、相手の速い突きを太極拳の動作の形で受けられたとしても、そこに太極拳ならではの勁や感覚や意識がこもっていなければ意味がないのである。それが沾粘連随の「沾」だ。

一方で攻撃側はいわゆる、少林拳や現代格闘技のように突き蹴りが主体の攻撃を行う。

これも自分の場合はついでに形意拳等の理合いも少々加味しつつ、極力、単独で行える型に落とし込んで動きを練習した後に、ようやく連散手として組み合わせるというやり方にしている。

ある意味、皆にとってはこうしたキビキビした動きもたまには新鮮に感じるようだ。もちろん、そのように感じられるような下地は作ってきたつもりだ。そういう真っさらな気持ちで見ることが出来れば、攻撃側は乱暴なものでも、単なるやられ役でもなく、そこには実にたくさんの優れた技法や学びがある。

ところで、何故、攻撃側が先生役になるのかというと、そこにはもう一つ大事な意味がある。それは、あくまで根底には太極拳がなければならない、という事だ。

いわば最も太極拳の外形から外れたところで太極拳を行わなければならない。そして客観的な視点から太極拳を味わうということ。三層の功夫で言えば、明でなく暗。厳密に言えば暗への足掛かりとするものであり、それを学ぶのが攻撃側の目的でもあると言えるだろう。

そうした陰陽の関係によって、単に用法の詰め合わせ的なものだけでなく、システマチックに様々なことを学んでいけるのが連散手の素晴らしいところだ。そして、こうしたものを通して学んでいくのも三拳弊習の我が門の太極拳なのだ。

「我が門の武術は、我が門の練習によって成り立つ。」また、「我が門の武術に必要なのは真摯に学ぶ気持ちだけである。」何度でも繰り返し心に刻みたい言葉である。

我が門の武術は、強い人には教えるが、弱い人にはやっても意味がないので教えない、というものではない。

強い弱いに拘らず、今、出来ることをする。そこに、共に良い学びが得られるものこそ武術だと思っている。

純度と雑味

標準

わずか5年の間でも、基本を繰り返し・繰り返し教え続けていると、まず誰よりも先に自分自身にかなりの気付きがあるものだ。生徒に教えるということは、師父から習ったことを何度も思い起こしながら、どうしたら生徒にその意味と大切さを伝えることが出来るかと、いろんな角度から基本に対する思索を深めてきたようなものであるから、当然と言えば当然かもしれない。結局は、生徒を成長させるのも、自分自身を成長させるのも同じという事だ。

自分自身の理解が深まってくると、自然と教え方も変わってくるし、動きを導くために使う言葉まで変わってくる。一方で「上下相随」「虚実分明」「空胸緊背」等の常に繰り返し引用する言葉は、ますますその意味が深まってきた。それらによって生徒たちの技が一段と変わってきた手ごたえがあり、技や基本も、ある意味シンプルでより明確なものになってきた。
何もかも良い感じになってきた…と思っていたのだが、なかなかそう一筋縄ではいかないものである。

最近も弟子に言われてハッとなったことがあった。それは、自分が初期の頃に教えた、今の自分から見れば雑味が入りまくったある練習法を弟子が新しい生徒に教えていたのだが、わざわざそれを教えたわけを尋ねてみると、弟子にとってみればそのやり方が入り口として「分かり易くて、良かった」と言う。

例えるなら「水清ければ魚棲まず」と言ったところであろうか。
弟子のとった行動は、自分にも覚えがある。

いや、むしろ自分自身がその行動をよくとっていたし、それらの内容を誰よりも大切にしていたと思う。

我が門においては「工夫に力を入れれば(工力+夫)=功夫になる」という師祖父のウィットに富んだ言葉が残されているように、確かにその練習法は八卦掌など名前も聞いたことのないような生徒に、どのように八卦掌を教えていくか?ということを試行錯誤をしながら工夫した練習法ではあった。

それが今は八卦掌がどういう拳法であるかというイメージも皆の中に浸透して、本来あるべき練習法で進められるように教室の雰囲気が整ってからは、その言わば方便のような練習法は自然と消えていったのであるが、習い始めて間もない人には、ある意味、武術の性質から言って純度が高すぎると分かり辛く、逆に雑味が入っているほうが逆に目立つという良さがある、と言ったところだろう。

思い起こせば、今の宇童会を教え始めた時に、なにより役に立ったと感じるのはその雑味の部分であった。それを知っているか知っていないかは、師父の初期からの生徒と後から入った生徒との大きな違いであるとも思っていた。

それがいざ、自分のこととなるとつい純度を高める方に目が行きがちで、意外とそういうところは見おとしがちになってしまうものだ。しかも、なまじ純度が高くなることで成果があがっている分、教える側として未熟だった頃の自分が考えたものなど、つい「もう必要ない」とさえ思ってしまう。

しかし、そういうわけでもないというのは、その時期だからこそ感じ取れるものがあり、その時期ならでは発想出来ることもあるということだろう。

純度と雑味。

その絶妙なバランスを愉しめるようになりたいものである。