精花太極拳の編纂過程その2

標準

さて、前回その1は師父からのメールの内容は?というところで終わっているので、まずはそのメールの内容からである。
あらためて、そのメールをいただいたのは「守破離」を論じたブログを書いた時だ。抜粋にはなるが、以下に掲載したい。
なお、師父に代わってお断りしておくならば、その内容についてはあくまでも当門に伝わるものだということをご了承いただければと願う。

「ご存知の通り、これは日本発祥の道芸に関する考え方ですが、日本武道や日本文化を研究、あるいは留学によって吸収していた、国民党及び中央国術館の諸先生先輩の間で、様々な見解が交わされたものだ、と榮明先生から伺っていました。
その大筋は日本武道、茶道、その他芸道の様々な一般的な教えの紹介…これは特に新流派創造にとって実に都合のいい解釈として受け入れられていましたが、中には中国武術ならではの解釈を矜恃とする先生もおられ、陳泮嶺先生は正に、宇野さんとほぼ同じく、明暗化の三層之功夫を論じられたそうです。
ただし、本については、明暗化を経て自分が達した高みを説くに終わらず、次に伝えるべき基本こそを再構築せよ、基本を編み出してこそ指導者たりえるのであり、それなくば伝承は果たせぬ、との見解だったそうです。
榮明先生はその教えを受けてさらに、
守:まず我が身を守りきる
破:敵の技を破り敵を破る
離:攻守勝負を離れた境地
本:守破離から産む基本
とも解され、
その上で、わかりやすく初学者向けに用意するカリキュラムとして、
守:太極拳
破:形意拳
離:八卦掌
本:基本功(常に)
の順に教えるのだ、という考え方を、ある時期しきりに説かれていましたが、極峰拳社を作ってからは、むしろその手順にとらわれるなと、よく仰っていました。」

これが師父からいただいたメールの抜粋である。

最近あらためて拝読して、自分が精花太極拳を編纂したのは、このような意味があったのだと気付かされた次第だ。

精花太極拳とその練習段階には、まさに自分が今までに学んだ教えや研鑽した結果を全て注ぎ込んでいる。その中には介護の経験すら含まれており、まさに現段階での集大成だ。その上で、誰もが取り組みやすいようにと編纂を心掛けた。

つまりは精花太極拳は、その基本功や練習体系を含めて、全てが「次へ伝える基本」。即ち「本」なのだ。

さらに自分はブログ「守破離」の中でさらに自分はこうも書いている。

「自分が教える太極拳とは、
師父が教えてくれた太極拳でありながら、
師父の太極拳ではなく自分の太極拳であり、
ではその自分の太極拳はと言えば、
自分の太極拳などというものはなく、
ただ「太極拳」なのである。」

と。

まさかこの時は精花太極拳を自分で生み出そうなどとは露にも思わず、単に細かい枝葉の違いという意味くらいにしか考えていなかった。

だが、双辺太極拳から精花太極拳が生まれた後であっても、この言葉が変わる事はないし、むしろその意味は深まっている。そう、前半の3行については、この言葉通りだ。

それよりも、後半の『自分の太極拳などというものはなく、ただ「太極拳」なのである。』とは、あらためて当時は(と言ってもわずか3〜4年前なのに)随分と世間知らずで恥ずかしい事を書いたものだなぁとも思う。だが、道を歩んで行くのならこのくらいの気概を持っても構わないとも感じるし、まだまだたくさんの恥ずかしい思いをするだろう。

だが、それ以上に太極拳や武術が与えてくれる学びは、面白いし素晴らしい!それに尽きる。精花太極拳を編纂する過程で、もっとも感じたのはその事である。いわば、先師が通った道を、自分も追体験したのだ。それはあらゆる原点のようにも感じる。

ただ「太極拳」と言えるもの。それを追求していくのは、まさにこれからだ。

ちなみにいただいたこのメールの後には、師父自身の考察や気づきが綴られていたのであるが、それは是非自分の兄弟弟子が自らの力で、自らの行動を通して師父から引き出していただきたいものである。

なぜなら師父の考察は、自分で師父から学び得てこそ、価値のある内容だからだ。

そして自分の学生や拝師弟子には、こうしたやり取りの中に、師弟というものの気迫を感じ取って欲しいものである。

精花太極拳の編纂過程というタイトルを付けておきながら、過程というよりも総論になってしまった。

次回、段階練習が生まれていく過程も含めて、体系としてまとまっていく様子を、なんとなく記録的な意味合いで残しておきたいと思う。

精花太極拳の編纂過程その1

標準

精花太極拳が生まれる前。
普段、自分が指導しながら、言っていて辛くなる言葉があった。

「無理に足を上げなくていいですからね。出来る範囲で」
「この動きは必ずしも脚を手で叩かなくていいですから、かわりに膝を打つ感じで」

など、すでに足腰の弱っている方に、自分がしている動きと同じ事を要求できない時の言葉である。
低い姿勢などもそうだが、ある意味「妥協している」と生徒に感じさせてしまう言葉。
それが辛いというか、悔しいのである。

まっさらな気持ちで太極拳を習いに来ている生徒さんがそう言われてやるのは、どこかで気持ちが傷ついているはずだ。やっていることは変わらないと理屈では理解しながらも、大なり小なり「自分は先生がやっているような本来の太極拳を身につけることは出来ないのだ」というような気持ちが燻り続けるに違いない。

ほとんどの太極拳は老若男女が無理なく出来ると謳っている。
確かにその言葉通り。足を高くなど挙げなくとも太極拳だ。

むしろ、テレビや雑誌で見るような足を高く上げる姿勢は、大抵が競技ルールに沿った目的の筋肉の使い方や体使いをしているのであって、我が門においては太極拳の本質にかかわるものではないと教えているし、そもそも挙げる足の高さを目的とした体使いを要求することはない。

だが、そんな我が門の高く足を挙げるのが目的ではないほどの高さですら、ある時から末期の癌で身体が弱っていた弟子にはそれが出来なくなってしまった。思いの他早い段階で、いわゆる先ほどの「妥協を感じさせるようなやり方」でしか出来なくなってしまったのだ。頭ではわかっていたつもりでも、そんな自分の不甲斐なさにはきっと涙したことだろう。

いや、弟子でなくとも身体が弱ってきていると感じる人こそ健康のために太極拳をやるべきなのに、そういう人が希望を胸に門を叩いた時、先生が足を高く挙げたり低く体を沈めているのを見たらどう思うだろう?そういう人達は妥協した形でやるしかないのだろうか?

このようなことを書くと考え過ぎと思われる方も多いだろうが、自分は純粋に、体の弱っていた弟子が「一切の妥協のない太極拳を練習している」と思えるような、そんな喜びを感じられるような太極拳を作りたかったのである。

だからこそ、出来るだけ多くの人が、老いや病を理由に「妥協したものをやっている」という思いをしないですむ太極拳を編纂したかった。

だからと言って、底が浅く、雙邊太極拳ががあるのだから別にやらなくてもいいやと思うようなものにもしたくなかった。

より万人向けでありながら、初心者から上級者まで取り組み甲斐があり、なおかつ美しい太極拳を作りたかった。

これらが精花太極拳を編纂する過程で、常に想い続けていたことである。

「本当は中国発祥のものなのに日本人が勝手に作り変えるのはどうか?」と思う人もいるだろうが、そう思われるのは正直仕方がないと思っている。たぶん中国と日本のどちらにも、そう考える人は少なくないだろう。

それでも、自分自身で再編纂したことを隠しもしなければ、逆に自慢するつもりもない。

ただ、縁あってこの精花太極拳に触れた方が、ヨタヨタ歩きだったものがしっかり歩けるようになったことが嬉しい。面白いと言って続けてくれているのが嬉しい。そうした喜びがあるのが一番だ。

また、再編纂を通して、自分自身の太極拳への理解も深まったこと。たくさんの気づきがあったこと。
それもかなり大きな収穫だ。

太極拳は、「連、圏、転、分…」といった十段階とも十二段階とも、またそれ以上とも言われる段階練習を経て身につけていくものだが、それもまたどうせやるならとことんまでということで、思いっきり自分の生徒達に親しみやすく分かり易い言葉と形に、様々な工夫を凝らしながら体系ごと再構築した。

その新しいのが、

「書、剣、花、雲、鳥、風、地、天、人」

この九段階には、我が門の形意拳の教えや、八卦掌の三回九転の発想やストーリー的な要素も取り入れている。

以前「守・破・離」のブログを書いたときに師父からメールをいただき、「守破離と本」ということについて貴重なお話をいただいた。
最近、その内容を読み返したところ、新たに体系まで含めて再構築したことの意味が、何故その必要があったのかがそこに記されていたことに気づき、感慨を新たにした。

また、守破離のブログの中でも自分自身が語っていた言葉が、こんな風に繋がってくるとは思ってもいなかった。

自分にとっての「本」。
三拳弊習の武術としての「本」。

それが精花太極拳だったのだ。

「本」とはなにか?
師父からのメールの内容は?

そんなことも含めて続きは次回に。

明鏡拳舎の八卦掌2

標準

前回のブログ「拳と掌の性質について」では八卦掌の質問がきっかけでありながら、肝心の八卦掌のことをあまり書けなかったので、別の視点から八卦掌について紹介してみたいと思う。

下の動画は今からもう7年近くも前のものになるが、八卦掌の技の一つである。

本来は一手目を受けてすぐに脇の下に点穴(急所を指で突く)を入れるのだが、撮影で気が急いてしまって、ウッカリ飛ばしてしまっているのも懐かしい。

この技の解説であるが、ポイントは顔に来たパンチを相手から遠ざかって避けたかと思いきや、次の一瞬の反転で相手の背中側に肘が決まる、と言うところにある。

さらに相手は後ろから背中を打たれたかと思うと、見えないところから手が首あたりにかかって、前から投げが入る。

この投げは動画では判り辛いかもしれないが、最後の投げは柔道のように手で首に巻きついたり足を引っ掛けて投げるのがメインではなく、実際には套路のように形が出来上がる過程で技が掛かっている。投げる瞬間には一瞬、力を入れて手で担いでいるように見えるかもしれないが、相手を怪我させないように受け身を取りやすくコントロールしているが故である。

この技は相手からすれば、(きちんと点穴も決まってる場合)前から攻撃を受けたかと思いきや背中を打たれて、また前から投げられるのだから、前後の感覚が狂って実に目まぐるしく感じるであろう。

この一手の中には点・打・投とバリエーションに富んだ攻撃が含まれており、螺旋と八角形の角度・八卦の方向が密接に組み合わさることで、思いもよらぬ技を生む。

こんな技が成り立つ角度と間合いの妙こそが、自分にとっての八卦掌らしさだと思う。

こうした特長をもった技に、前回の動画にある「重いサンドバッグが縦に浮き上がるような掌打」が加わって、我々の八卦掌は構成されているのである。

もちろん前回の動画は形意拳の劈拳であるので、同じような掌打でも八卦掌的に展開されることで性質はさらに変化するし、使い方にもやや特徴がある。

いっそのこと「これが明鏡拳舎の八卦掌なのだ!」と、もっと動画を出せば分かり易いのかもしれないが、さすがにそれは色々な意味で難しい。だが、逆に数少ない動画の中に、何か独特の雰囲気を感じてもらえると、「なるほど、こだわりを持って八卦掌をやっているのだな」と多少は思ってもらえるかもしれない。(笑)

このような技術をいかに構築し、展開していくか。

また、その原理・原則となるものは何か。

それが八卦掌の套路の中に凝縮されているのである。

そのような訳で、今一度前回のブログの冒頭の質問だった「八卦掌は、なぜ拳ではなく、わざわざ掌で打つのですか?」という問いに答えを付け加えるならば、「掌打の質の違いの他にも、実際には八卦掌は肘もよく使いますし、掌も打つだけでなく投げにも応用しやすい利点があります」となるだろうか。

さらに掘り下げるなら「拳を使わないというより八卦掌の動きや戦い方に拳で打つ動きは合わないし、それでもあえて拳を使うなら形意拳に変化した方が良い」とも言える。

というより、我々は三拳弊習なので「形意拳がある」のだ。

しかも三拳弊習の八卦掌と形意拳だからこそ、両者の間はスムーズにシフトする。ならばこそ拳を使いたい場合はむしろ形意拳を使う方が我々的には自然なのである。

これは他の八卦掌の流派からするとやや狡い物言いかも知れないが(笑)、そうしたところがまた良くも悪しくも三拳弊習なのである。

拳と掌の性質について

標準

「八卦掌は、なぜ拳ではなく、わざわざ掌で打つのですか?」と尋ねられたことがある。
その言葉には、真意として「掌よりも拳の方が威力があるように思うのだが」というニュアンスを含んでいるように感じられた。

その時に尋ねてきたのは他派の生徒さんだった事と、自分の流派の武術について色々実演しながら説明等できるような環境ではなかったので、当たり障りのない返答をしたのみであったが、そもそも掌打の威力や性質について共通の認識やイメージがなければ、何を説明しても噛み合うものではないのである。

ということで、八卦掌ではないのだが同じく掌で打つ形意拳の劈拳による掌打は、我々の場合は下の動画のようになる。

劈拳_試打(内功武術 明鏡拳舎)

状況によって力の伝え方にはいくつかのバリエーションもあるが、この動画で説明したいのは「性質」の違いである。

打っている姿の見た目には力強さを感じないが、それでもこの動画をよく見ると、掌打の瞬間には重いサンドバッグが土台ごと斜め上方向に浮き上がっているのがわかる。

掌打を使うのもこうした性質の衝撃があってこそであり、単に「拳」を「掌」に置き換えて使っているのではなく、掌打ならではの性質をいろんな方向に活かしているのが八卦掌や形意拳の劈拳なのである。

つまりは門派ならではの独特の動きと理論と活用法があっての掌打ということになる。

ついでに、独特の動きと理論ということで言えば、拳においても同様である。
我々の順突き、つまり順歩崩拳なら下の動画のような具合である。

崩拳 試打(内功武術 明鏡拳舎)

これは一見して普通のパンチとの見た目の違いから、巷で言うワンインチ・パンチや寸勁のようなものと思って比較しようとする方もいるかもしれないが、我々にとってはあくまで順歩崩拳という形意拳の基本的な突きの技術の一つであり、ことさらに距離の短さと威力の関係を突き詰めようとするものではない。

崩拳の動画もまたよく見ると、サンドバッグは真っ直ぐ向こうへ押されているのではなく、劈拳と同じように斜め上方向に跳ね上がっているのがわかる。

そして、腕の角度とサンドバッグが跳ね上がる方向は微妙に一致してるわけではなく、サンドバッグは手に吸い付いたように劈拳とほぼ同じ方向へと跳ね上がっていく。

劈拳だけだとよくわからないが、こうして劈拳と崩拳を一緒に比べてみると、共に普通の打撃の現象とは違って見えるところがより際立つ。それは、そのまま一般的な突きや掌打の概念とは違う理論で成り立っていることを示唆しているのである。

ちなみに、なぜ八卦掌でなく形意拳の動画なのか?ということについては、八卦掌の掌打はサンドバッグだと特徴が表れにくいので、色々と見た目に分かり易い形意拳の掌打にした次第だ。

掌打も拳による突きも言葉の意味こそ共通してはいるが、門派によってその理論や性質は大きく異なっているし、それを実際に見たり体験したりしなければなかなかわかりえないのだということを、あらためて記しておきたい。

なので一般の格闘技などのイメージで突きや掌打を語ると必ずと言って良いほど誤解も生まれ、突きや掌打の練習方法等も一致するものではないのは当然なので、特に自分の生徒さん達にはその辺を熟知しておいていただきたいものである。もっとも、最近行った合宿に参加された生徒さんは、その片鱗を愉しく味わったことであろうが。(笑)

おそらく、他派で同じく形意拳を学んでいる方の中でも打撃の性質の違いを感じる方もいらっしゃるだろうし、もちろん自分の生徒さんの中には、他派の形意拳に違いを感じる方もいるに違いない。

だがそれは我々の形意拳は八卦掌が混じっている事や、陽の性質よりは陰の性質に近い為であり、どちらが良い悪いではないということ。

大切なのは、自分達の形意拳や八卦掌の「性質を熟知し、使い熟す」ということである。

精花扇

標準

明鏡拳舎のホームページには、太極拳の項目に精花太極拳に並んで、「精花扇」というものがある。

この精花扇とは何ぞや??という話であるが、例えば、我が門には「握拳で行う双辺太極拳」や、「紙風船を手に持って行う双辺太極拳」があるが、ざっくり言ってしまえば「扇を持って行う精花太極拳」が精花扇だ。

例えば「握拳で行う双辺太極拳」を例にとると、全て握拳で太極拳を行っても問題なくシックリくるのは形意拳が融合している双辺太極拳ならではだろう。それゆえ、たったそれだけのことで様々な気づきが得られるわけだが、同様に、ただ扇を持って太極拳をするだけというにもかかわらず、様々な効果を得られるのが精花太極拳の精花扇と言える。

扇を使って太極拳をしようと思ったのには、幾つかの理由が存在する。

一つには、自分は師父より常々、この武術は武器術が根本にあることを学んできていたし、自分もまたその教えを身体に通しながら「まさにその通りだ」と思いながら学んできた。

ところが現代の日本においては、武器は手に入れづらいだけでなく、例え手に入れてもなかなか練習場所がないという残念な状況にある。

武器を練習した方が良いことにはこれまた幾つかの理由があるが、その大きな理由の一つには、武器を操る時の機能的な身体操作を身につけるという事があげられる。

棍、刀、槍、剣と、どれもこれも太極拳や形意拳、八卦掌とは切っても切れないものだし、これはそれこそ経験した者だけが実感できるものだ。だからこそ、それを伝えたいとは思っても、残念ながら現代社会においてはそれらはおよそ不必要なものであり、というよりもむしろ危険視されていて、実際に学ぶ機会を得るには幾つもの障害がある。

そういう状況で生徒にどこまで教える事が出来るか?という行き詰まりが、ある意味、精花扇の様な奇手を生み出したのかもしれない。

もちろん、武術において扇を使うのは我々だけではないし、 むしろ扇を使う事で言えばはるか後から追随している格好になる。

だが、そうであるが故に扇の使い方はあくまで独自の考え方で行なっていると言えるだろう。

例えば簡化24式がベースとなる太極扇では、扇を使った独自の技法が随所に入っているが、正直言って自分がやりたいとイメージしていた事とは、方向性が全く違っていた。

それに対して精花扇はある意味、その名の通り扇を持って精花太極拳を行うだけのものと言って良い。

だが、「ただ、それだけ」が良いのだ。

なぜ、ただ扇を持って套路を行うだけが良い練習になると思ったか?そのきっかけは、率直に言ってただの直感だった。

「シンプルな動作の精花太極拳に扇の動きはきっと合うだろう。扇の種類は中国の武術用のものではなく、小用先生が採用しているような日本舞踊で使っている舞扇が良い。」

そんな考えがなんとはなしに浮かんだ。

当然の成り行きとしてどうしても試してみたくなり、いざっ舞扇を手に入れて試してみると、果たして予想以上の感触に心がワクワクするのを感じた。

「扇で風を受けたり捉えたりするのは、ポンとの陰陽の関係に近しい。」

「扇を開いた状態は、刀の反りに通ずるだけでなく、ほんの少しだが螺旋がある。(鴛鴦鉞のような武器に感じる違和感がない!)」

「色々と道具を工夫して活用するのは、我々の武術の特徴であり、伝統でもある。実際、レンガや紙風船を使った練功まで存在するではないか。」

「日本舞踊における扇は、時に風に舞う花びらに、時に刀剣にもなるが、逆に我々にとっては扇は武器の感覚そのものである」(この感覚は、後にある体験をする事でもっと深いものであったことに気づくのだが、それはまた別の機会に)

「武器術の感覚を得るのは重要だが、武器は手に入れにくく、仮に手に入ったとしても練習する場所が限られる。一方、扇は手に入れ易く練習もしやすい。」

「日本の舞扇は作りもしっかりしていて、良い武器を手に入れたのと同じような感覚がある上に、武器に比べるとはるかに安い。」

等々、その良さがどんどん言葉となって出てくるのだ。

実際に套路に扇の動きをつける過程においては、解釈によって扇の動きは様々に変化する。その中で、どの解釈による動きを採用するかは技についての考察を深めることにも繋がった。

精花扇によって得られる効用は本当に様々だ。

これは「太極拳」と「日本の扇」という異文化が出会って生まれた新しい可能性なのだとも言えるし、様々な偶然や工夫が積み重なった結果でなければおそらく成立しなかっただろう。

実際、双辺太極拳のままで扇は軌道が複雑すぎるし、精花太極拳だからこそ成立するのだという事は、実際にやってみるとすぐに知ることが出来る。

では、精花と双辺は別物かというとそうではない。

精花は双辺太極拳を再編纂したものなのだから当然だろうと言われればそうなのだが、そう言い切れるようになるまでは、かなりの試行錯誤があったわけで、振り返ってみればいつの間にかずいぶん時間か経ってしまったものである。

だが、此処に至る過程で、体系的にはかなり整理されてきた実感もあり、それらについてはまた機会を見ながら語っていきたいと思う。

精花太極拳

標準

二つの太極拳」で初めて話に触れた精花太極拳だが、現状の明鏡拳舎においては、すっかりなくてはならない存在になりつつある。

ホームページの太極拳の項目には、精花太極拳の紹介文として「精花太極拳が生まれた背景には、癌で亡くなった私の一番弟子が闘病の中で共に練習していた時の様々な経験が根本にあり」という文章を載せているが、あらためて、そうした経験がなければなぜ大切な双辺太極拳を再編纂しようなどと思うだろうか。

今更ながら、「双辺太極拳から八卦掌や形意拳の要素を抜いたら?」という発想に至ったのには訳があった。

それはまだ開門弟子が闘病中だった時のこと。癌で闘病中の弟子が悲しそうに言うには、点滴の針が刺さった腕で練習をしようとすると、双辺太極拳の最大の特徴でもある「螺旋」があるが為に、

「点滴の針が腕の中でよじれて痛い」

と言うのである。

そもそも点滴の針が刺さった状態で練習しようということに無理や限界があるのかもしれない。

だが自分がこの言葉を聞いた時、どんなに悔しく愕然としたことだろう。この時の自分には、弟子の真摯な気持ちに答える言葉がなかった。

弟子が亡くなったあともずっとその言葉が頭を離れることはなかったし、この言葉こそが精花太極拳を生んだと言っても過言ではない。

だからこそ、自分にとって精花太極拳の前で言い訳は出来ない。老、病、障がい。どんな壁があろうとも、弟子の頑張っている姿が瞼に焼き付いている限り、あらゆる工夫をしながらでも我々の太極拳の愉しさや素晴らしさを育んでいきたいという想いがある。

一方で、もう一つ発見もある。

その後、精花太極拳を研究していくうちには消したはずの螺旋が全く消えたわけではなく、今までと違う形で入り込んでいるのだというのがわかってきた。八卦掌も形意拳も同様に、気づかないうちに別の姿に変わっていつのまにか緩やかに溶け込んでいることに気づく。

やはり、双辺太極拳は双辺太極拳なのだ。

双辺太極拳から精花太極拳を再編したことの意味とは、原理原則を現実の場で活かすということ。それもまた一つの「応用」だ。双辺太極拳は武術的な視点においても応用が多彩であればこそ、体の弱っていた弟子の為に双辺太極拳を応用したものなのだと捉えると本質が見えてくる。

それによって、精花太極拳を練ることで不思議と八卦掌にも形意拳にも良い影響が現れることの理由も見えてきた。何より双辺太極拳もまた、精花太極拳を身体に通した後は動きが変わるのを如実に実感する。これは全く予想もしなかった角度からの深化だった。

しかしそれもまた「真摯に歩んで行けば自然と今の自分が乗り越えるべき課題が現れる」という事と、その結果であろう。

自分にとってはまさにそうした存在であるように思えるし、生徒達にとってもまた必要があって生まれたものなのだということも実感している。

武術の道を歩んでいくという縦の糸と、その過程での出会いや関わりといった横の糸とが複雑に折り重なって編まれた太極拳。おそらく他人には興味を持たれることもないだろうが、我々にとっては内功武術という大きな模様の中に描かれた大切な一部だ。

 

Iさんの太極拳

標準

宇童会の生徒の話をする時に、繊細な感覚の持ち主ということでプロのギタリストさんのYさんの話を時々あげるが、もう一人、繊細な感覚を持つ生徒に、全盲のIさんがいる。

基本は個人レッスンの形で教えているのだが、彼女との会話は、とても面白い。彼女との会話の内容はまるで内功武術的な話のオンパレードだ。

ものが見えないからこそ、見た目の形や雰囲気に惑わされることがない。動きそのものを見る。まるでソムリエがワインの味や香りを語るが如く、触れた掌からポン勁と捻りが紡ぎ出す動きの変化や性質を語り合うその面白さは、まさしく「ワインを愉しむ」かのように、「太極拳を愉しむ」といったような面白さである。

形としては一見似ていないような動きでも、「この動きは、○○と同じですね!」「この動きは○○の変化した感じですね!」と、長年練習を積んだ方と話すような会話が最初から普通に出てくるし、動きを導けば、「何この動き⁉︎それに、すごく身体が動く!」と誰よりも打てば響くような反応を示してくれる。

こうしたダイレクトな反応というのは、教える側としても嬉しいものだ。

逆に、太極拳を教える時にただ「この動作では爪先の向きを何度にする」「手をどの位置に出す」というような説明や動作だけでは、「これが太極拳です」と言われても、「形を見る」のではなく、触れて「動きの本質を見る」彼女にとっては、体操やダンスとの明確な違いは感じられないだろう。

彼女にとっての太極拳らしさとは何か。

それは、太極拳の動作にはストーリーがあるということ。

もちろん、体操やダンスにもテーマやストーリーを設けるのは当然だろうが、それらとの違いは何かというと、触れた掌から伝わる筋肉の動きや繋がりや変化といった皮膚感覚そのものにも流れがあり、ストーリーがあり、リズムがある、ということだ。

ゆっくりふんわりと動く中に、全身の繋がりによって起こる複雑な変化。川の流れのように滔々と変化し続ける動作と共に身体に起きている起承転結を、直に触れながら皮膚で感じとるもの、それが彼女にとっての「太極拳らしさ」なのだ。

そのIさんは今、事情があって休会しているのだが、99勢の第三段・94.轉身左劈面掌まで終わっていて本当にあと少しのところまで来ている。

亡くなった弟子が土に種を蒔き、それが今、スクスクと成長しながら花を咲かせようとしている矢先のやむを得ない休会で、自分が宇童会に通っている間に99勢を教えきらなかったのは残念ではあるのだが、きっと遠からず99勢に辿り着く事は間違いない。

そして、その花が実った時にはきっと我々の内功武術に優しい彩りを添えてくれることだろう。

二つの太極拳

標準

最近、もう一つの太極拳にはまっている。
一つはもちろん我々の双辺太極拳だ。
陳式、楊式、呉式を研究された陳pan嶺先生が、形意拳・八卦掌の要素を加味して創始し、張榮明師祖父がそれぞれの要素をより際立たせた形で新たに編纂した、自分が本当に素晴らしいと惚れ込んだ太極拳である。
ではもう一つの太極拳とは、なにか。
もしかしたら他派のものか?というと、そうではない。
最近、ハマっている太極拳。それは、あえて「八卦掌と形意拳の要素を抜いた双辺太極拳」なのである。
このブログを始めたときは、確かに形意拳と八卦掌については、より純度を追求していくというスタンスであったが(注:それは三拳融合を試みられた中で絶対的に混じり合わないものがあり、その混じり合わない要素をその拳法のオリジナリティと捉え、それらによって構成されていると言う意味で)、太極拳だけは三拳が含まれていることこそ双辺太極拳の特徴であると思っていたし、そこに独自性や誇りと感じていればこそ、形意・八卦の要素を抜くと言う発想は全くなかったといってよい。
ところが、
「八卦掌と形意拳の要素を抜いた双辺太極拳」
という発想が、ふとしたきっかけで生まれた。
それは、軽い気持ちと思いつきで始めた作業ではあったが、実際にやり始めてみるとその面白さにどんどんはまっていくのを感じた。そして不思議なことに、シンプルな太極拳にしていけばいくほど、かえって三拳の繋がりが感じられるのだ。
違っているのに、かえって繋がる。
これは意外な効果でもあったし、予想外の展開でもあった。
また、いつもの双辺太極拳とは違った効果もあるのも、いろんな人の感想からわかってきた。
我々の双辺太極拳は、段階が進めば進むほど八卦掌の要素が強くなっていくが、それをあえて「抜く」という方向に働かせるのはまさに逆転の発想であろう。
しかし、こうしたフレキシビリティを持つというのも、我々の三拳弊習のスタイルとも言えるのかも知れない。
ちなみに、三拳融合をはかった我々の双辺太極拳から形意拳と八卦掌の要素を抜けば、純粋な太極拳が現れるのかと言うと、そういうわけでもない。
確かに技の中には一部、先祖がえりのように、陳式や楊式に出てくる形に似たものに変わってしまうものもあるが、やはり全体としては、いずれの太極拳とも違う「我々独自の雰囲気と理合いを持った太極拳」と言えるだろう。
それら技の変化の過程を味わうことが出来たのは良い経験と気づきであったし、何より、我々の太極拳の解釈とはこうなのだということが、より明確になってきた。
明鏡拳舎では、普段の双辺太極拳と区別するために、太極拳的なエッセンスを学ぶ為の套路と言う意味で「精花太極拳」と呼んでいるが、その精花太極拳は素直で非常にシンプルでありながら、生徒たちからの評判も良い。
というより、冒頭で書いているようにまず自分自身がはまっている。(笑)
素直でシンプルな精花太極拳。
これを亡くなった弟子に見せたなら、きっと「うわーっ」と目を輝かせて喜んだに違いない。常に「痛み」に苛まされ、歩くことすら難しい状態だったであろうに、この武術で培った繊細な重心移動や立ち方で、「歩く」ということを「再現」していた弟子。
この精花太極拳がもっと早く生まれていたらと、ふと考えをめぐらせてしまう。
「成長 ~ 日記より(1)~」に書いた、弟子の太極拳のこと。
「日曜日の午後、お見舞い&個人レッスンでH.Kさんの病室に伺った時、外の光が射す白い壁の部屋の中で、H.Kさんの太極拳を見せていただきました。一切の無駄のとれた、素直で、美しい太極拳でした。点滴のチューブを付けながら、手術したばかりの身体で、自分の身体を感じながら丁寧に丁寧にこの太極拳を打っているH.Kさんの姿が目に浮かぶようでした。それは、第二の站椿を形をとりながら、小さな歩幅で行う、動きの少ない太極拳でしたが、真面目に地味な站椿をする事からはじまり、僕が教えた通り真摯に意識して感じながら行っている姿が、H.Kさんが積み重ねてきたもの全てが、そこに見えた気がしました。套路は嘘をつきません。僕は、こんなに尊い太極拳を見たことはありませんでした。」
その弟子の太極拳に応えるような太極拳が、今になって自分の中に出来上がった、そんな気がしてならない。
そう。弟子や学生も含めて、生徒たちがいなければ生まれてこなかった太極拳だ。
例え周りにとっては価値は感じられなくとも、我々はその効果を知り、様々な意味を持ちながら大切に思う。
一人一太極拳。
そんな太極拳があっても良いだろう。

ポジショニングと内功武術

標準

ポジショニングはポジショニングでも、今回は介護の「ポジショニング」に絡めた話である。

介護と武術というと、巷では古武術の技術や身体操作を介護現場に活かすということが何年も前から時折話題にあがっているので、今更と思われるかもしれないが、今回の話は介護の技術を武術にという話だ。
以下は、ふとした思い付きから最近、教室で初めてポジショニングの視点から教えた時の生徒の感想である。

◆「今回の先生の、介護でのポジショニングのお話しを含んだご説明で、自分はなぜあんなに新鮮にかんじたのかな?と考えておりました。僕の中で変わったのは、練習の時等、その時点での自分にとっての答えが、自分の中にあるという感覚が増えた気がします。太極拳もゆっくりと練習してみましたが、ゆっくり行う目的を、以前より感覚的にも持てて嬉しく思いました。」

読んだだけでは何となく流れてしまうかもしれないが、この感想は、クラシック音楽のプロのギタリストであるYさんが書いてくれたものだ。

非常に繊細な身体感覚を持つ彼の言葉は、まさに自分が教えながら感じた感想そのもので、ある意味、初学者が掴みにくい内功的な部分が、ポジショニングのアプローチを使うと、彼の感想のようにとてもシンプルに捉えることが出来るのだ。

同じ意味の事は普段の練習でも教えているし、推手含め、具体的な練習方法もある。だが、それでもなお新鮮さを感じ、効果があったということは、そこに新たなヒントがあるということだ。

そもそもそのポジショニングとは何か?という話については、このブログを書くにあたって「わくわく直観堂」さんのホームページを参考にさせていただいた。

http://www.waku2chokkan.com/hpgen/HPB/entries/101.html

そこに書いてある部分を抜き出してみると、

ポジショニングは、「目的を達成するために身体各部の並びを整えてふさわしく、好ましい姿勢、体位を実現する。その姿勢・体位は安全で快適であること。」を意図したものであるということ。

またポジショニングの肝は、安定して体位を保持する、筋緊張を緩和する、体圧を分散する、動き出しの起点をつくる、という事にあるということ。

こうしてみると全体的な雰囲気として近いものを感じるかと思うが、このポジショニングの技術は、内功武術における「まず自分の身体を感じる」ということについて、新たな視点からのアプローチになりえると思うのだ。

普段よく思うことは、初心者に「まず感じる」と言っても、「何を」感じれば良いのか?それが難しい。感じるということは実感してわかってしまえばシンプルな話なのだが、わからないうちはその要求は非常に曖昧で抽象的なものだ。

ところが、ポジショニングの技術は、その導入の難しさを容易にしてくれるのである。

もちろん、それが初心者に限らず、我々にとっても意外な効果をもたらすことは、Yさんの感想でも明らかだ。

では、その「感じるものとは何か?」。

一言で言えば「力」だ。

「心、意、氣、力」の「力」。

そしてそれは、「大きな力」ではなく、「小さな力」。

介護の技術を武術にと言えば、「心、意、氣、力」の四つの視点からすると「心」がテーマになるのが相応しい気がするのだが、今回のこの話は、それが対極にある「力」からのアプローチの話になるのが面白いところだ。

だがそれも、相手の状態を理解する、相手の気持ちになろうとして生まれてきた技術と考えれば、それが「感じる」為の具体的な技術というのもしっくりくる。

重度の身体障がいを持った方というのは、コミュニケーションをとるのが難しい場合も多く、介助者が状態から想像するしかない。そして状態をより正しく把握する為に考案されたのがポジショニングの考え方とも言えるであろう。

ポジショニングとは、確かに簡単に言ってしまえば「楽な体勢を確保するための技術」であるが、その状態を確保する為の過程には、上述の知識のもとに相手の様々な「力」を感じながら、状態を探っていくことが不可欠だ。

「力」によるアプローチから相手の状態を理解することによって、介助者の思い込みによらずに、より適切な体勢を確保することが出来るのである。

我が門には「極端にしてみることで、気づきがある」という教えがあるが、内功武術の目で見ればなんのことはない、自分がポジショニングを行っている現場とは、身体や力を感じるということにおいて、あくまで同一線上にある一つの極まった状況と捉えることが出来るであろう。

自分の場合、少林寺拳法や大東流においても、整体の基本的な考え方を教わった事で技が大きく変わった経験をもっているが、結局は、治す事も壊す事も表裏一体というように、これもまた陰陽だということだ。

内功武術はつくづく繊細で緻密なものだと思う。

繊細で緻密というと、こと武術においてはこれらの言葉を聞いた場合、大抵の人が思い浮かべるのはどちらかというと「繊細で緻密だが、脆い」というようなネガティブなイメージではなかろうか。

というのも、繊細で緻密なのは「巧さ」の表現であって、「強さ」とは結びつきにくいからだろう。

だが「繊細で緻密だからこそ、構造的にしっかりして無駄がなく効率的」なのが内功武術である。

それは強固な建造物が、資材の一つ一つを吟味し、緻密に計算された上で、繊細な作業によって造られているようなものだ。

このブログでは、内功武術のブログにもかかわらず呼吸法や氣や経絡などと言った、いかにも中国武術的な話はほとんど出てこない。

だが、それだけでない内功武術がある。

理にかなった動作や武術というものは、それだけでたくさんの語るべきものをもっているはずである。

「心、意、氣」のみならず、「力」についてこんな風に語れることこそ、内功武術ならではの味わいではなかろうか。

「陰陽」 ~共通性と違いという視点から~

標準

我が門では太極拳、八卦掌、形意拳の三拳を弊習する学習システムであるがに故に、様々な形での陰陽の関係に気づくことが出来たことはこれまでにも触れてきたが、最近、それは三拳に留まらず、自分がこれまでに学んできた日本の武術と中国の武術ということにおいても大きな意味でやはり陰陽の関係に捉えることが出来る事を、おぼろげながらもあちらこちらに感じられるようになってきた。
また、見識を広める過程で様々に触れさせていただいた武術においても、同様に、様々な陰陽の関係を見る思いがするのである。

それは共通性という話でもなければ、単なる違いといった話でもない。まさに陰陽と言うべき関係性なのだが、それを見出すことでより理解が深まるように思うのだ。というより、そもそもがそうした発想によって深めていこうというのが、我々の練っているものなのかもしれない。

なによりまず、自分が様々な武術を通じてもっとも関心があるのは「共通性」よりも「違い」、つまりそれぞれの武術の特徴である。もちろん、ただ小手先の技術の違い等の話なら幾つ挙げても意味がない。どのような特徴でどのように技術が体系付けられているのか。それこそが自分の言う「違い」の部分だ。逆に言えば、その体系を一旦理解したならば、小手先の違いと思えた技術もまた必然的な理由として見えてくる。

例えば、同じ形意拳でも、ある先生のところで交流させていただいたときには、根本に置く原理原則の違いから、全く別の技術体系になっていることを再認識した。その原理原則の違いとは正しいとか間違っているとかではなく、どちらを選択するかというまさに枝分かれ的な内容のものである。事実、自分の門派とは違ったやり方で、それを活かすための素晴らしい技術や、様々な工夫が散りばめられた体系が構築されているのをみると、一度、自分の原理原則をそちらに切り替えて、ドミノ倒しの如く全てをひっくり返してみたい衝動に駆られてしまいさえする。ましてやその先生が、現代における達人先生の一人と、誰もが認める存在とあってはなおさらだ。

そうした確かな技術体系と功夫の前に自分自身が晒された時、どちらが正しい形意拳とかそういった視点はもはや無意味であり、その違いの中に何を、如何に、学ぶかだ。むしろ虚実分明と言おうか、違いや特徴が明確になることは、即ち、学びや気づきでもあり、それが単なる違いから陰陽の関係に落とし込めた時、より納得した上で繋がりを感じることができるように思うのだ。

そこに至るためには、自分の形意拳を突き詰めていればこそであるし、それが出来たのならば、自分の中でそれを併せ持った姿が、つまり、何をもって形意拳かというビジョンもまた、自然と自分の中で鮮明になっていく。

もう一つ例を挙げると、最近でもあったことだが、日本の雑誌等においては、八卦掌は大東流や合氣系の武術と似てる似た感じの武術と紹介されることが多いように思うのだが、自分は全くそうは思わない。

もっとも八卦掌自体が、開祖である董海川の弟子からして異なる風格や内容の八卦掌にそれぞれ分かれているくらいなので、他門派においてはそのように感じるものであったとしても不思議ではないことも理解している。特に程廷華はシュワイジャオを修めていたこともあり、そうした成り立ちからしても柔術系や合氣系の武道と結びつきやすいだろうし、また、実際にそのように技術体系を構築しているところもあるのではないかと思われる。それは、先に述べたように尹福が羅漢拳を、程廷華がシュワイジャオをベースに、それぞれの八卦掌を構築して行ったことを考えると、少しもおかしなことではない。

一方で、自身の八卦掌はそういった様々な八卦掌ともまた違った追求の仕方をしていることは自覚しているので、余計に全くの別物に思えるのだろう。

しかし、自分にとっては、大東流や合氣系の武術と似てると感じない八卦掌だから良いのだ。

少なくとも自分の中で八卦掌という武術についてハッキリとその像を描くことが出来るし、迷いなく追求することも出来る。

違うからこそ追求し甲斐があるし、そこに陰陽を感じ取れればこそ、繋がりもまた感じる事が出来るのだ。