我が門の太極拳、形意拳、八卦掌

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三拳が融合と一口には言っても、融合のされ方はそれぞれ特徴があって面白い。

例えば師父は、三拳融合をある"一つの形"で表したが、自分はむしろ、もっと明確にそれぞれを分けた。一極に極まれば陰陽転換が起こる、というところか。このようなダイナミックな転換は、代々受け継いでいく歴史あってのものだろう。また、一子相伝ではなく、門として広く構え、その門に入るものを家族とし、共に師父の技を受け継ぐものがいるからこそ、安心してトライすることも出来る。自分はそういった中国武術の世界が好きだし、感謝してもしきれないと思う。

ということで、自分の三拳は融合の仕方までそれぞれだ。
まずは、太極拳に八卦掌と形意拳。
太極拳が形意拳の技法であろうと八卦掌の螺旋であろうと、何でも受け入れて良い具合に自分のものにしてしまうのは、融通無碍で懐が広く、さすが陰陽拳、バランス拳である。
ところが、八卦掌に太極拳となると真逆で、八卦掌には一切太極拳の要素は入らないし、それを嫌う。螺旋にポンが入るのは、むしろ自分の中では螺旋の崩れ、八卦掌の拳理の破綻だと言ってよい。ではそれでなぜ??どのように融合しているのかというと、全く混じり合わないがちょうど裏表の関係、太極図の陰陽のように拳理が組み合わさったような状態で融合している。
次に形意拳と八卦掌。太極拳が八卦掌を全面的に受け入れるのに対して、八卦掌は太極拳を一切弾く。ではこの二つは?というと、根本原理のところではそもそもが一つで、二つに分かれたような存在だという解釈だ。というのも、螺旋は限りなく細く凝縮していけば一本の棒のようになり、即ちそれは紬絲勁となる。だから二つの間ではどのようにも展開しうる。もっとも、あくまで「本来がどういうものであったか?」ではなく「明鏡拳舎においては、そのように体系化した」のだ。
それは最後の形意拳に太極拳という組み合わせが、どのように融合しているかにも現れている。形意拳と八卦掌が双子の兄弟のようなものだとしたら、やはり形意拳も太極拳との単純な融合を嫌う。自分の感覚としては、太極拳が混じるとエッジが取れてシャープさがなくなり、動きもヌルくなるように感じる。ところが唯一、練習方法に関してはお互いに多いに得るところがあり、やはり表には現れないが、密接に融合しているのだ。
というように、我が門の三拳弊習は体系化された、大きな意味で一つの武術だということだろう。
このような体系のもとに、それぞれの拳法があり、三拳弊習に応じた練習方法がある。
だから、我が門の三拳は確かに本来のものと違うし別物かもしれないが、違うからこそ愉しいのだ。

明鏡拳舎の八卦掌

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「進化か?偽物か?」のところで我々の八卦掌、というよりも明鏡拳舎の八卦掌は異端というようなことを書いたが、当然ながら、それには理由があってそう見えるということである。一言で言えば、我が門の八卦掌の技は3D的なのだ。

我々の八卦掌は、走圏や套路も、円ではなくあくまで「八角形」の考え方だ。加えて「軸」の重要性。軸は立身中正を保つのではなく歳差運動をおこしながら自由に動く。だから身体はコントロールできる範囲ならいくら傾こうと構わない。そして「螺旋」。我が門の八卦掌を構成する要素はこれだけと言ってよいし、むしろ、それ以外のものが混じるのを嫌う。

ただこれだけの事なのに、見た目や理屈は一般のものと非常に異なったものになる。特に「軸」に対する考え方は、動きを目にすれば馴染まない人もいるかもしれない。しかし、軸を倒すのは心意六合拳等でも普通に存在する動作である。逆に、本当に立身中正のまま途中一切身体が傾かない套路がどれだけあるだろうか?定式だけをもって常に立身中正と思い込んではいないだろうか?結論から言えば、人間は歩くときだって身体は微妙に傾きを繰り返している。「不安定の中の安定」。だから八卦掌は歩くこと=走圏から始まっている。

八卦掌は董海川からの流れからしてすでに、各流派で行われていることが違っている。そこからまだ数代しかたっていないわけだから、ある意味、発展途上中の拳法であるとも言えるかもしれない。もっとも我々の門は言ってみれば、時代を経ても絶対に変わらない部分と、時代を経ながら練磨し変化していく部分とが、陰陽のように合わさって積み重なっていくものだと考えているからこそ、揺らぎがないのかもしれない。

ただ、我々の八卦掌には一つ言えることがある。それは、我々の八卦掌は、技をかけられた相手は螺旋に崩れる、もしくは螺旋に倒れるということだ。螺旋の力が相手に伝われば、相手もまた螺旋に崩れる。出来ているか出来ていないかを判断するのはシンプルである。だから面白い。明鏡拳舎の八卦掌はある意味まだまだ再編纂中だが、自分の中では、答えは常にハッキリしているのも八卦掌である。