明鏡拳舎の八卦掌2

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前回のブログ「拳と掌の性質について」では八卦掌の質問がきっかけでありながら、肝心の八卦掌のことをあまり書けなかったので、別の視点から八卦掌について紹介してみたいと思う。

下の動画は今からもう7年近くも前のものになるが、八卦掌の技の一つである。

本来は一手目を受けてすぐに脇の下に点穴(急所を指で突く)を入れるのだが、撮影で気が急いてしまって、ウッカリ飛ばしてしまっているのも懐かしい。

この技の解説であるが、ポイントは顔に来たパンチを相手から遠ざかって避けたかと思いきや、次の一瞬の反転で相手の背中側に肘が決まる、と言うところにある。

さらに相手は後ろから背中を打たれたかと思うと、見えないところから手が首あたりにかかって、前から投げが入る。

この投げは動画では判り辛いかもしれないが、最後の投げは柔道のように手で首に巻きついたり足を引っ掛けて投げるのがメインではなく、実際には套路のように形が出来上がる過程で技が掛かっている。投げる瞬間には一瞬、力を入れて手で担いでいるように見えるかもしれないが、相手を怪我させないように受け身を取りやすくコントロールしているが故である。

この技は相手からすれば、(きちんと点穴も決まってる場合)前から攻撃を受けたかと思いきや背中を打たれて、また前から投げられるのだから、前後の感覚が狂って実に目まぐるしく感じるであろう。

この一手の中には点・打・投とバリエーションに富んだ攻撃が含まれており、螺旋と八角形の角度・八卦の方向が密接に組み合わさることで、思いもよらぬ技を生む。

こんな技が成り立つ角度と間合いの妙こそが、自分にとっての八卦掌らしさだと思う。

こうした特長をもった技に、前回の動画にある「重いサンドバッグが縦に浮き上がるような掌打」が加わって、我々の八卦掌は構成されているのである。

もちろん前回の動画は形意拳の劈拳であるので、同じような掌打でも八卦掌的に展開されることで性質はさらに変化するし、使い方にもやや特徴がある。

いっそのこと「これが明鏡拳舎の八卦掌なのだ!」と、もっと動画を出せば分かり易いのかもしれないが、さすがにそれは色々な意味で難しい。だが、逆に数少ない動画の中に、何か独特の雰囲気を感じてもらえると、「なるほど、こだわりを持って八卦掌をやっているのだな」と多少は思ってもらえるかもしれない。(笑)

このような技術をいかに構築し、展開していくか。

また、その原理・原則となるものは何か。

それが八卦掌の套路の中に凝縮されているのである。

そのような訳で、今一度前回のブログの冒頭の質問だった「八卦掌は、なぜ拳ではなく、わざわざ掌で打つのですか?」という問いに答えを付け加えるならば、「掌打の質の違いの他にも、実際には八卦掌は肘もよく使いますし、掌も打つだけでなく投げにも応用しやすい利点があります」となるだろうか。

さらに掘り下げるなら「拳を使わないというより八卦掌の動きや戦い方に拳で打つ動きは合わないし、それでもあえて拳を使うなら形意拳に変化した方が良い」とも言える。

というより、我々は三拳弊習なので「形意拳がある」のだ。

しかも三拳弊習の八卦掌と形意拳だからこそ、両者の間はスムーズにシフトする。ならばこそ拳を使いたい場合はむしろ形意拳を使う方が我々的には自然なのである。

これは他の八卦掌の流派からするとやや狡い物言いかも知れないが(笑)、そうしたところがまた良くも悪しくも三拳弊習なのである。

拳と掌の性質について

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「八卦掌は、なぜ拳ではなく、わざわざ掌で打つのですか?」と尋ねられたことがある。
その言葉には、真意として「掌よりも拳の方が威力があるように思うのだが」というニュアンスを含んでいるように感じられた。

その時に尋ねてきたのは他派の生徒さんだった事と、自分の流派の武術について色々実演しながら説明等できるような環境ではなかったので、当たり障りのない返答をしたのみであったが、そもそも掌打の威力や性質について共通の認識やイメージがなければ、何を説明しても噛み合うものではないのである。

ということで、八卦掌ではないのだが同じく掌で打つ形意拳の劈拳による掌打は、我々の場合は下の動画のようになる。

劈拳_試打(内功武術 明鏡拳舎)

状況によって力の伝え方にはいくつかのバリエーションもあるが、この動画で説明したいのは「性質」の違いである。

打っている姿の見た目には力強さを感じないが、それでもこの動画をよく見ると、掌打の瞬間には重いサンドバッグが土台ごと斜め上方向に浮き上がっているのがわかる。

掌打を使うのもこうした性質の衝撃があってこそであり、単に「拳」を「掌」に置き換えて使っているのではなく、掌打ならではの性質をいろんな方向に活かしているのが八卦掌や形意拳の劈拳なのである。

つまりは門派ならではの独特の動きと理論と活用法があっての掌打ということになる。

ついでに、独特の動きと理論ということで言えば、拳においても同様である。
我々の順突き、つまり順歩崩拳なら下の動画のような具合である。

崩拳 試打(内功武術 明鏡拳舎)

これは一見して普通のパンチとの見た目の違いから、巷で言うワンインチ・パンチや寸勁のようなものと思って比較しようとする方もいるかもしれないが、我々にとってはあくまで順歩崩拳という形意拳の基本的な突きの技術の一つであり、ことさらに距離の短さと威力の関係を突き詰めようとするものではない。

崩拳の動画もまたよく見ると、サンドバッグは真っ直ぐ向こうへ押されているのではなく、劈拳と同じように斜め上方向に跳ね上がっているのがわかる。

そして、腕の角度とサンドバッグが跳ね上がる方向は微妙に一致してるわけではなく、サンドバッグは手に吸い付いたように劈拳とほぼ同じ方向へと跳ね上がっていく。

劈拳だけだとよくわからないが、こうして劈拳と崩拳を一緒に比べてみると、共に普通の打撃の現象とは違って見えるところがより際立つ。それは、そのまま一般的な突きや掌打の概念とは違う理論で成り立っていることを示唆しているのである。

ちなみに、なぜ八卦掌でなく形意拳の動画なのか?ということについては、八卦掌の掌打はサンドバッグだと特徴が表れにくいので、色々と見た目に分かり易い形意拳の掌打にした次第だ。

掌打も拳による突きも言葉の意味こそ共通してはいるが、門派によってその理論や性質は大きく異なっているし、それを実際に見たり体験したりしなければなかなかわかりえないのだということを、あらためて記しておきたい。

なので一般の格闘技などのイメージで突きや掌打を語ると必ずと言って良いほど誤解も生まれ、突きや掌打の練習方法等も一致するものではないのは当然なので、特に自分の生徒さん達にはその辺を熟知しておいていただきたいものである。もっとも、最近行った合宿に参加された生徒さんは、その片鱗を愉しく味わったことであろうが。(笑)

おそらく、他派で同じく形意拳を学んでいる方の中でも打撃の性質の違いを感じる方もいらっしゃるだろうし、もちろん自分の生徒さんの中には、他派の形意拳に違いを感じる方もいるに違いない。

だがそれは我々の形意拳は八卦掌が混じっている事や、陽の性質よりは陰の性質に近い為であり、どちらが良い悪いではないということ。

大切なのは、自分達の形意拳や八卦掌の「性質を熟知し、使い熟す」ということである。

我が門の太極拳、形意拳、八卦掌

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三拳が融合と一口には言っても、融合のされ方はそれぞれ特徴があって面白い。

例えば師父は、三拳融合をある"一つの形"で表したが、自分はむしろ、もっと明確にそれぞれを分けた。一極に極まれば陰陽転換が起こる、というところか。このようなダイナミックな転換は、代々受け継いでいく歴史あってのものだろう。また、一子相伝ではなく、門として広く構え、その門に入るものを家族とし、共に師父の技を受け継ぐものがいるからこそ、安心してトライすることも出来る。自分はそういった中国武術の世界が好きだし、感謝してもしきれないと思う。

ということで、自分の三拳は融合の仕方までそれぞれだ。
まずは、太極拳に八卦掌と形意拳。
太極拳が形意拳の技法であろうと八卦掌の螺旋であろうと、何でも受け入れて良い具合に自分のものにしてしまうのは、融通無碍で懐が広く、さすが陰陽拳、バランス拳である。
ところが、八卦掌に太極拳となると真逆で、八卦掌には一切太極拳の要素は入らないし、それを嫌う。螺旋にポンが入るのは、むしろ自分の中では螺旋の崩れ、八卦掌の拳理の破綻だと言ってよい。ではそれでなぜ??どのように融合しているのかというと、全く混じり合わないがちょうど裏表の関係、太極図の陰陽のように拳理が組み合わさったような状態で融合している。
次に形意拳と八卦掌。太極拳が八卦掌を全面的に受け入れるのに対して、八卦掌は太極拳を一切弾く。ではこの二つは?というと、根本原理のところではそもそもが一つで、二つに分かれたような存在だという解釈だ。というのも、螺旋は限りなく細く凝縮していけば一本の棒のようになり、即ちそれは紬絲勁となる。だから二つの間ではどのようにも展開しうる。もっとも、あくまで「本来がどういうものであったか?」ではなく「明鏡拳舎においては、そのように体系化した」のだ。
それは最後の形意拳に太極拳という組み合わせが、どのように融合しているかにも現れている。形意拳と八卦掌が双子の兄弟のようなものだとしたら、やはり形意拳も太極拳との単純な融合を嫌う。自分の感覚としては、太極拳が混じるとエッジが取れてシャープさがなくなり、動きもヌルくなるように感じる。ところが唯一、練習方法に関してはお互いに多いに得るところがあり、やはり表には現れないが、密接に融合しているのだ。
というように、我が門の三拳弊習は体系化された、大きな意味で一つの武術だということだろう。
このような体系のもとに、それぞれの拳法があり、三拳弊習に応じた練習方法がある。
だから、我が門の三拳は確かに本来のものと違うし別物かもしれないが、違うからこそ愉しいのだ。

明鏡拳舎の八卦掌

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「進化か?偽物か?」のところで我々の八卦掌、というよりも明鏡拳舎の八卦掌は異端というようなことを書いたが、当然ながら、それには理由があってそう見えるということである。一言で言えば、我が門の八卦掌の技は3D的なのだ。

我々の八卦掌は、走圏や套路も、円ではなくあくまで「八角形」の考え方だ。加えて「軸」の重要性。軸は立身中正を保つのではなく歳差運動をおこしながら自由に動く。だから身体はコントロールできる範囲ならいくら傾こうと構わない。そして「螺旋」。我が門の八卦掌を構成する要素はこれだけと言ってよいし、むしろ、それ以外のものが混じるのを嫌う。

ただこれだけの事なのに、見た目や理屈は一般のものと非常に異なったものになる。特に「軸」に対する考え方は、動きを目にすれば馴染まない人もいるかもしれない。しかし、軸を倒すのは心意六合拳等でも普通に存在する動作である。逆に、本当に立身中正のまま途中一切身体が傾かない套路がどれだけあるだろうか?定式だけをもって常に立身中正と思い込んではいないだろうか?結論から言えば、人間は歩くときだって身体は微妙に傾きを繰り返している。「不安定の中の安定」。だから八卦掌は歩くこと=走圏から始まっている。

八卦掌は董海川からの流れからしてすでに、各流派で行われていることが違っている。そこからまだ数代しかたっていないわけだから、ある意味、発展途上中の拳法であるとも言えるかもしれない。もっとも我々の門は言ってみれば、時代を経ても絶対に変わらない部分と、時代を経ながら練磨し変化していく部分とが、陰陽のように合わさって積み重なっていくものだと考えているからこそ、揺らぎがないのかもしれない。

ただ、我々の八卦掌には一つ言えることがある。それは、我々の八卦掌は、技をかけられた相手は螺旋に崩れる、もしくは螺旋に倒れるということだ。螺旋の力が相手に伝われば、相手もまた螺旋に崩れる。出来ているか出来ていないかを判断するのはシンプルである。だから面白い。明鏡拳舎の八卦掌はある意味まだまだ再編纂中だが、自分の中では、答えは常にハッキリしているのも八卦掌である。