Iさんの太極拳

標準

宇童会の生徒の話をする時に、繊細な感覚の持ち主ということでプロのギタリストさんのYさんの話を時々あげるが、もう一人、繊細な感覚を持つ生徒に、全盲のIさんがいる。

基本は個人レッスンの形で教えているのだが、彼女との会話は、とても面白い。彼女との会話の内容はまるで内功武術的な話のオンパレードだ。

ものが見えないからこそ、見た目の形や雰囲気に惑わされることがない。動きそのものを見る。まるでソムリエがワインの味や香りを語るが如く、触れた掌からポン勁と捻りが紡ぎ出す動きの変化や性質を語り合うその面白さは、まさしく「ワインを愉しむ」かのように、「太極拳を愉しむ」といったような面白さである。

形としては一見似ていないような動きでも、「この動きは、○○と同じですね!」「この動きは○○の変化した感じですね!」と、長年練習を積んだ方と話すような会話が最初から普通に出てくるし、動きを導けば、「何この動き⁉︎それに、すごく身体が動く!」と誰よりも打てば響くような反応を示してくれる。

こうしたダイレクトな反応というのは、教える側としても嬉しいものだ。

逆に、太極拳を教える時にただ「この動作では爪先の向きを何度にする」「手をどの位置に出す」というような説明や動作だけでは、「これが太極拳です」と言われても、「形を見る」のではなく、触れて「動きの本質を見る」彼女にとっては、体操やダンスとの明確な違いは感じられないだろう。

彼女にとっての太極拳らしさとは何か。

それは、太極拳の動作にはストーリーがあるということ。

もちろん、体操やダンスにもテーマやストーリーを設けるのは当然だろうが、それらとの違いは何かというと、触れた掌から伝わる筋肉の動きや繋がりや変化といった皮膚感覚そのものにも流れがあり、ストーリーがあり、リズムがある、ということだ。

ゆっくりふんわりと動く中に、全身の繋がりによって起こる複雑な変化。川の流れのように滔々と変化し続ける動作と共に身体に起きている起承転結を、直に触れながら皮膚で感じとるもの、それが彼女にとっての「太極拳らしさ」なのだ。

そのIさんは今、事情があって休会しているのだが、99勢の第三段・94.轉身左劈面掌まで終わっていて本当にあと少しのところまで来ている。

亡くなった弟子が土に種を蒔き、それが今、スクスクと成長しながら花を咲かせようとしている矢先のやむを得ない休会で、自分が宇童会に通っている間に99勢を教えきらなかったのは残念ではあるのだが、きっと遠からず99勢に辿り着く事は間違いない。

そして、その花が実った時にはきっと我々の内功武術に優しい彩りを添えてくれることだろう。

宇童会〜名称の由来〜

標準

5月の合宿をもって、弟子に引き継いだ愛知県支部の宇童会だが、第一回目が行われたのは、2009年11月28日だった。
初めは月に一度開催だったものが、月二回に増え、土日を利用することで太極拳クラスだけでなく、八卦掌クラスも出来た。それから7年半の年月が流れ、あわせると地球を三周するよりも長い距離を、自ら運転しながら通い続けてきたのだった。

初めての教室のあとには参加者の皆さんから感想が届き、自分もそれが嬉しくてその感想一人一人に全て返信を書いたのがきっかけで、以来、皆からの感想に一人一人に返信をつけて、それを「宇童会便り」として皆で共有するということもあわせて続けてきた。

月に一・二回の教室では、どうしても説明が行き届かないことがあったりするし、一人一人への指導も薄くなってしまう。宇童会便りはそうしたことの補足にもなったし、また、東京から通うために交通費の分が別にかかってしまうことに何かの形で報いたいという気持ちもあったと思う。

宇童会便りは、一通につき平均三通くらいの感想と返信が乗る。最後の返信を書き終えた時は、宇童会便りも620通にのぼっていた。平均三通としてざっと1800程度の返信を書いたことになる。

初めは簡単なやり取りであった返信も、徐々に内容は長く濃いものに変わっていった。それに全て返信を書くのは確かに大変なことでもあったのだが、それを通して自分もまたどれだけ思考力が養われたか、その経験と副産物的な効用は計り知れない。

しかし、そうした宇童会便りも含めて自分のやるべきことは「やりきった」と思えるからこそ、今こうして安心して二番弟子に後を任せることが出来るし、生徒一人一人を信頼することが出来るからこそ、自分もまた次のステージに挑戦すべきなのだということもわかる。

宇童会を教えながら、自分がどれほど大きなものを学んだか。

振り返れば、「宇童会」の名は亡くなった開門弟子と師父とのメールのやり取りの中で生まれてきたものだった。

抜粋にはなるが、後でいただいたそのやり取りを紹介すると、

◆◆◆◆◆
> それで、今日はすぐに練習場を予約してきたのですが、
> その際にグループ名の登録が必要とのことで
> とっさに「極峰拳尾張の会」と書いてまいりましたが、
> 登録しなおしもできますので、よい名がございましたら
> ご教示くださいませ。

もともと宇野さんと加藤さんのご縁で生まれた会です。
お二人にちなんだ名称が望ましいです。

極峰拳社は私の師父、張榮明老師が名付けてくださったものです。
張榮明老師の師父、すなわち私の師祖父である陳泮嶺老師は
字(あざな)を俊峰といいました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E6%B3%AE%E5%B6%BA

張榮明老師曰く、

>道家縁の聖地、湖北省武当山に秀峰「天柱峰」あり。
>遠く山の頂を望み、その峰の高みを目指すがごとく、
>陳俊峰師祖の到達された境地、武の最高峰を極めんと集いし者よ、
>道は遠く険しくとも、その志しを忘れることなく精進し、
>武功の成るを以って師祖の英霊に報い給え。
>霊峰は厳然とそびえ立ち、諸君を遥かに見守っている。
>ここに志しを同じくする者の学びの場を「極峰」(jifeng)と命名す。

とあり、師祖父の「俊峰」、私の「遠山」、「太極拳」にちなみ、
武術の志をからめて命名されたわけです。

高遠瞳、偶然にも
極峰の名の由来の中にある「最高峰を遠くに望み、極めんとす」が含まれています。
これまた偶然ですが、遠山という姓は加藤から分かれて生まれた姓でもあります。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/toyama_k.html

ちょっとした連想ですが「瞳」=ひとみ=一三=13=十三は、太極拳の基本構造を表す数字。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%8B%A2

こうしてみると、加藤ひとみ=高遠瞳 はそもそも極峰拳社に縁のある名前だったと思えます。

一方、宇野の「宇」は「宇宙」の宇。
宇宙という単語は、漢の淮南子という書物に登場し、
「宇」は「天地四方上下」(=上下前後左右の六方向、三次元空間)
「宙」は「往古来今」(=現在過去未来、時間)を表し、
すなわち「宇宙」とは時空=宇宙を表します。
従って宇野には空間の広がりを示す意味があるのです。

加藤さんが記事に書かれた

>太極拳の動きは球体が360度開かれた空間に動いていき、
>らせんがつながっていくような豊かさがあった。

というご感想には、宇野に通じるものがあります。

漢字の瞳の字の童は本来、貫き通した穴を指し、瞳=目に開いた穴を意味します。
その穴を通過する=貫くのは光。
閉じた眼球内の限られた空間に、無限に広がる外界の光が差し込んで像を結びます。
そこで、宇野の宇、瞳の童を用いて「宇童会」といたしましょう。
『瞳の奥に豊かな光を結ぶ人の集まり』になっていただきますように。
宇童=宇野さんの生徒という単純な意味も含みます。
拳社内での正式な名称は「極峰拳社健身班 宇童会」ですが、
みなさんの通称や地元への届出は「太極拳宇童会」「宇童会」で結構です。

> 超初心者の小さなグループが尾張の地に産声をあげます。
> うまく育つかどうか、皆目わかりませんが、
> どうぞお心にかけていただきまして、育っていけますよう
> ご指導、ご配慮のほど、よろしくお願い申し上げます。

もちろん、私も宇野も時々教えにまいりますが、
皆さんが最低週1度は自主的に集まって練習していただければ幸いです。
◆◆◆◆◆
と。

宇童会の名前にはこうした思いが込められている。

今では「内功武術 明鏡拳舎・宇童会」となったが、それが宇童会の歩みでもある。

今の自分があるのは、本当にこうした素晴らしい師父と弟子のお陰なのだと、あらためて感謝の気持ちが湧いてくるのである。