宇童会〜名称の由来〜

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5月の合宿をもって、弟子に引き継いだ愛知県支部の宇童会だが、第一回目が行われたのは、2009年11月28日だった。
初めは月に一度開催だったものが、月二回に増え、土日を利用することで太極拳クラスだけでなく、八卦掌クラスも出来た。それから7年半の年月が流れ、あわせると地球を三周するよりも長い距離を、自ら運転しながら通い続けてきたのだった。

初めての教室のあとには参加者の皆さんから感想が届き、自分もそれが嬉しくてその感想一人一人に全て返信を書いたのがきっかけで、以来、皆からの感想に一人一人に返信をつけて、それを「宇童会便り」として皆で共有するということもあわせて続けてきた。

月に一・二回の教室では、どうしても説明が行き届かないことがあったりするし、一人一人への指導も薄くなってしまう。宇童会便りはそうしたことの補足にもなったし、また、東京から通うために交通費の分が別にかかってしまうことに何かの形で報いたいという気持ちもあったと思う。

宇童会便りは、一通につき平均三通くらいの感想と返信が乗る。最後の返信を書き終えた時は、宇童会便りも620通にのぼっていた。平均三通としてざっと1800程度の返信を書いたことになる。

初めは簡単なやり取りであった返信も、徐々に内容は長く濃いものに変わっていった。それに全て返信を書くのは確かに大変なことでもあったのだが、それを通して自分もまたどれだけ思考力が養われたか、その経験と副産物的な効用は計り知れない。

しかし、そうした宇童会便りも含めて自分のやるべきことは「やりきった」と思えるからこそ、今こうして安心して二番弟子に後を任せることが出来るし、生徒一人一人を信頼することが出来るからこそ、自分もまた次のステージに挑戦すべきなのだということもわかる。

宇童会を教えながら、自分がどれほど大きなものを学んだか。

振り返れば、「宇童会」の名は亡くなった開門弟子と師父とのメールのやり取りの中で生まれてきたものだった。

抜粋にはなるが、後でいただいたそのやり取りを紹介すると、

◆◆◆◆◆
> それで、今日はすぐに練習場を予約してきたのですが、
> その際にグループ名の登録が必要とのことで
> とっさに「極峰拳尾張の会」と書いてまいりましたが、
> 登録しなおしもできますので、よい名がございましたら
> ご教示くださいませ。

もともと宇野さんと加藤さんのご縁で生まれた会です。
お二人にちなんだ名称が望ましいです。

極峰拳社は私の師父、張榮明老師が名付けてくださったものです。
張榮明老師の師父、すなわち私の師祖父である陳泮嶺老師は
字(あざな)を俊峰といいました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E6%B3%AE%E5%B6%BA

張榮明老師曰く、

>道家縁の聖地、湖北省武当山に秀峰「天柱峰」あり。
>遠く山の頂を望み、その峰の高みを目指すがごとく、
>陳俊峰師祖の到達された境地、武の最高峰を極めんと集いし者よ、
>道は遠く険しくとも、その志しを忘れることなく精進し、
>武功の成るを以って師祖の英霊に報い給え。
>霊峰は厳然とそびえ立ち、諸君を遥かに見守っている。
>ここに志しを同じくする者の学びの場を「極峰」(jifeng)と命名す。

とあり、師祖父の「俊峰」、私の「遠山」、「太極拳」にちなみ、
武術の志をからめて命名されたわけです。

高遠瞳、偶然にも
極峰の名の由来の中にある「最高峰を遠くに望み、極めんとす」が含まれています。
これまた偶然ですが、遠山という姓は加藤から分かれて生まれた姓でもあります。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/toyama_k.html

ちょっとした連想ですが「瞳」=ひとみ=一三=13=十三は、太極拳の基本構造を表す数字。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%8B%A2

こうしてみると、加藤ひとみ=高遠瞳 はそもそも極峰拳社に縁のある名前だったと思えます。

一方、宇野の「宇」は「宇宙」の宇。
宇宙という単語は、漢の淮南子という書物に登場し、
「宇」は「天地四方上下」(=上下前後左右の六方向、三次元空間)
「宙」は「往古来今」(=現在過去未来、時間)を表し、
すなわち「宇宙」とは時空=宇宙を表します。
従って宇野には空間の広がりを示す意味があるのです。

加藤さんが記事に書かれた

>太極拳の動きは球体が360度開かれた空間に動いていき、
>らせんがつながっていくような豊かさがあった。

というご感想には、宇野に通じるものがあります。

漢字の瞳の字の童は本来、貫き通した穴を指し、瞳=目に開いた穴を意味します。
その穴を通過する=貫くのは光。
閉じた眼球内の限られた空間に、無限に広がる外界の光が差し込んで像を結びます。
そこで、宇野の宇、瞳の童を用いて「宇童会」といたしましょう。
『瞳の奥に豊かな光を結ぶ人の集まり』になっていただきますように。
宇童=宇野さんの生徒という単純な意味も含みます。
拳社内での正式な名称は「極峰拳社健身班 宇童会」ですが、
みなさんの通称や地元への届出は「太極拳宇童会」「宇童会」で結構です。

> 超初心者の小さなグループが尾張の地に産声をあげます。
> うまく育つかどうか、皆目わかりませんが、
> どうぞお心にかけていただきまして、育っていけますよう
> ご指導、ご配慮のほど、よろしくお願い申し上げます。

もちろん、私も宇野も時々教えにまいりますが、
皆さんが最低週1度は自主的に集まって練習していただければ幸いです。
◆◆◆◆◆
と。

宇童会の名前にはこうした思いが込められている。

今では「内功武術 明鏡拳舎・宇童会」となったが、それが宇童会の歩みでもある。

今の自分があるのは、本当にこうした素晴らしい師父と弟子のお陰なのだと、あらためて感謝の気持ちが湧いてくるのである。

キセキ

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“2017年4月8日の話。

愛知県のクラス「宇童会」で太極拳と八卦掌を教える為に、朝から中央道を走っていると、ラジオから3.11の震災から6年の日にあわせた特別番組の再放送が流れてきた。

ちなみに、宇童会は今年5月、つまり来月行われる合宿をもって二番弟子のFさんに引き継ぐことになっている。7年以上にわたって通った愛知県も、今回を含めて残すところあと3回。そんな事情もあってか、ラジオを聞きながら6年前の東関東大震災の日の事をしみじみと思い出していた。

あの日は「宇童会」の前日にあたっており、地震が起こった時は代官山にある映像関係の職場で会議中であった。状況が状況だったので会社は17時前に解散となったが、電車の復旧もめどが立っていなかったので、すぐさま代官山から町田の家まで歩いて帰ることにした。家に到着したのは23時30分過ぎ。家の無事を確認すると、翌朝早くに通行止の東名高速を避け、この中央高速で愛知県へと向かったものだった。翌々日には東名高速で帰って来ることが出来たが、後にも先にもあんなにガラガラの東名高速は見たことがなかった。

そんな想いにふけっていると、ラジオからは津波で被害にあった岩手県大船渡市出身という女性歌手の歌が流れてきた。その澄んだ綺麗な歌声と、「キセキ」というまっすぐで素朴な曲調にフッと心惹かれて思わず聴き入ってしまう。余韻に浸りながら、ふと、我に返って目の前にあるインフォメーションを見ると何やらいつもなら見るはずのない地名が。「やってしまった!」
そう、歌や番組の内容に、聴き入っている間に、うっかり小牧インターで降り損なってしまったのだ。

仕方なく次の一宮で降りる事にしたが、一宮は以前、仕事で長期出張で来ていた西春の近くだった。その長期出張がきっかけで、この宇童会も生まれたのだ。インフォメーションには西春の文字も見えて懐かしさが込み上げてくることもあり「まあ、いいか」と気を取り直すのだが、ここでまさかの二度目のミス!なんとカーナビを見るタイミングが変なタイミングでズレてしまい、遠回りの道に入ってしまったのであ
る。

「なんてこった」と思いながら、カーナビを見直す。目的地は宿泊先の「すいとぴあ江南」であったが、通るルートを見てその時、ハッと気づいた。このルートは、亡くなった一番弟子の加藤ひとみさんと初めて出会った公園の近くを通るルートだ!

込み上げてくる想いを噛み締めながら道を走らせていくと、次には弟子が入院していた江南厚生病院の脇を通り過ぎる。その病室の窓からは宿泊先の「すいとぴあ江南」も見えた。すいとぴあ江南は宇童会の合宿も行なっている場所で、合宿に参加するのを楽しみにしていた弟子だったが、亡くなったのはちょうど合宿前日だった。その数日前には「すいとぴあ江南が朝日に光っています」とだけ書かれたメールが届いていた。それが弟子から届いた最期のメールだった。いったいどんな思いで病室からすいとぴあ江南を眺めていた事だろう。

ようやくすいとぴあ江南に到着した時には、車で所縁ある地を辿りながら、まるで弟子との出会いから宇童会の今までを振り返ってきた気分だった。

途中、このきっかけを作ってくれた歌が気になって調べてみたら、歌の内容からてっきり「奇跡」というタイトルだと思っていたのだが、実際には片仮名で「キセキ」だった。キセキは自分にとってはまさに「軌跡」だ。そう、今まで一番弟子の加藤ひとみさんと共に作り上げてきた宇童会を全て二番弟子のFさんに引き継ぐに当たって、こうした形で宇童会の「軌跡」を一緒に振り返りながら言葉にならない気持ちを伝えようとしてくれた、そんな風に思えてならなかった。

そして…

「キセキ」の歌を購入して改めてよく聴いてみれば、一番最初の出だしの歌詞は「ひとみが見えること」だった。一番弟子の名前「ひとみ」さんの名が、そこにあった。

you tube:濱守栄子「キセキ」 ”

「回想」~オンブラ・マイ・フより~

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夜、目が覚めて、ふと回想する。

今日で弟子が亡くなってから5ヶ月だ。葉桜の頃から、季節はようやくこれから紅葉を迎えようとしている。そんなまだ半年も経っていないのに、遠い昔のようにも感じるし、ついこの間の事のようにも感じる。

亡くなってしばらくは、常に練習場所には花が飾ってあった。ポカンと空いたその場所に、そこに弟子がいるかのように。写真は、その時のものだ。

弟子が亡くなった日は、ちょうど宇童会の合宿の日でもあった。

自分の生徒さんの中にクラシックギターのプロのギタリストさんがいるのだが、皆で弟子を偲びながら、生前、弟子とメールである曲についてやり取りをしたと教えてくれた。

そして、十弦ギターの優しく暖かい音色で弾いてくれたのが、この曲だった。

弟子のメールには、こんなことが書かれてあった。

—————————————-

「ヘンデルのあの曲はオンブラ・マイ・フ、または、ラルゴ、でしたね。(^_^;)

歌詞はこんなふうですって。

こんな木陰は
今まで決してなかった
緑の木陰
親しく、
そして愛らしい、
よりやさしい木陰は

中央公園の練習場所のテーマ曲?!みたい(笑)。」

—————————————-

中央公園とは、もちろん写真の場所であり、「葉桜 ~最初の弟子のこと~」に書いた、弟子が守ってくれた練習場所のことでもある。

弟子が、普段からいかにその場所を、皆が集まって練習するその空間を大切に思っていたかが、その文章から伝わってくるようだ。

花を乗せた置き石は、自分達が土の山だと思っていたものの中に埋もれていたもので、有志で綺麗に掃除をした時に出てきたものだった。

それで、そこが元は紡績会社の庭で、岩の配置も計算された美しい庭園だった事がわかったのである。岩には「太郎 吉日」の文字が彫られていた。

そうした人の心を汲む事が出来る弟子であった。だからこそ、特にこの場所を好きだと感じていたのかもしれない。

合宿にしてもそうだった。まるで、皆が集まりやすいように、師である自分に何度も愛知まで足を運ばせて迷惑をかけないようにと、ひっそりとその日まで頑張って生き抜くことを目標にしていたような気がしてならないのだ。

その証に、葬儀は合宿に全く影響することなくスムーズに行われ、むしろ合宿には本当に多くの生徒が集まってくれた。そして、合宿には急遽師父まで参加なさってくれ、初めて皆に師父を紹介し、師父の演武まで直接見せる事が出来た。

偶然と言えば、たんなる偶然の結果とも言える。

だが、自分がそこに弟子の密やかな戦いの姿をみるのは、なにより、結果のあちらこちらにいかにも弟子らしい気持ちが、心が感じられるからだ。

そこに偶然はない。

弟子が大切にし、守ったものを、自分もまた大切に守り伝えねばならない。

弟子に感謝を込めて。

包拳礼

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前回の更新から随分経ってしまった。
最低でも月一の更新をと思っていたので、初めて先月は何も書かないでしまったことになる。
正直、弟子の死を引きずってしまっていることもあり、再開に当たって最初のテーマを何にするか悩んだのだが、幾つか考えたうち、もっともこれだと思えたものが「包拳礼」についてのエピソードだった。

日本の武道では「礼に始まり、礼に終わる」という言葉があるが、こういった心境の時に、あえて礼の話から始めるのも良いだろう。ということで今回のテーマは「包拳礼」である。

我が門の教室では、礼はこの包拳礼で行う。

包拳礼の形式や細かい説明は省くとして、この礼の最も特徴的なところは、日本式の礼のように頭を下げたりはせず、むしろ相手をしっかりと見て「眼に自分の気持ちや意志を込める」と言うことにあるだろう。

例えば先生に「感謝の気持ち」を。例えば仲間に「共に良い学びをしよう」という誓いを。
これから練習が始まる時に、相手と組んで行う時に、練習の終わりに、様々な状況において、その時々でもっともふさわしい言葉や気持ち、全てを眼に込めて相手に伝えるのである。それが我々の包拳礼だ。

日本人ならつい、頭を下げて礼をしたくなる気持ちはわかるし、教室ではそれを敢えて注意はせず容認しているが、少なくとも包拳礼の考え方や頭を下げないことの意味が深く浸透しているのが、生徒たちの姿からもわかる。

ところで、なぜこの包拳礼がテーマなのかと言うと、引きずってると言いながらも再度、弟子との最後の別れの話になる。

弟子は最期の最後まで痛み止めを使わなかった。大腸がんの末期は「死んだほうがましだ」とある俳優が言い残すくらいに、ひどい痛みに苦しめられるそうだ。だが、痛み止めにはモルヒネが含まれていて意識が混濁してしまうということで、最期まで家族を、そして自分を含めて大事な人を認識するために、痛み止めを使うことを拒み、激痛と共に生き続けた。それが弟子の戦いだった。

それだけではない。色々と気配りができて、絶対に弱音ははかないような弟子だったからこそ、後から考えればあれもこれも色んなところで戦っていたのだということが、亡くなった後でわかった。もちろん真相は本人にしかわからないこともあるが、残された状況がそれを物語っていた。

弟子が亡くなる前々日。一緒に自分に学んでいる弟子の娘さんからメールが届いた。

夜の1:03分だった。

そんな時間に届いたメールというのは、いつどうなってもおかしくない危険な状態なので、最期に母に会って欲しいという内容だった。娘さんも連日、ほとんど眠れていないに違いない。

直ぐに「行きます」という返信を送ると、僅かな睡眠をとって弟子の入院している病院へと向かった。

…最後に会ったときの弟子の姿というのは、口は半開きで、片目はほとんど閉じた状態であった。
身体も身じろぎ一つせず、ただ、開いたほうの左目だけが一生懸命に何かを語りかけていた。
と同時に、声にならない声を一生懸命に出そうとしていたのがわかった。

「ああ、弟子は自分に何かを語りかけようとしているのだ」

…だが、その言葉は少しも理解できなかったし、何を言おうとしているか推測すればするほど色んなことが浮かびはするのだが、しかし、どれも何か違う気がした。

なにより目の前に横たわっている弟子が…、あの才気に溢れ、誰からも頼りにされていた弟子が、そんな姿に成り果ててしまったことの悲しみに打ちひしがれてしまっていたのだ。

そして弟子が訴えていたことがわからないまま、だが、意識ははっきりしているのだという事だけは確認したうえで病室を後にした。

その2日後、奇しくも弟子が息を引き取ったその日の朝に、窓から射す朝日を浴びた瞬間にその答えが見つかったのだが、その内容やそのことに関する一連の話はここでは留めておく。

ただ、先日。学生のK.Fさんとのメールのやり取りの中で、こんな質問があった。

「最後に会ったとき、ひとみさんは私に何を目で訴えたのだろう。何を話してくれたのだろう。わかる気は、するのですが、、その瞳が焼き付いております。先生は、どう思われますか?」

ああ、やはり弟子は最後に会った一人一人に語りかけていたのだと思いながら、こう返事を書いた。

「…僕から言えることは、「何を」という言葉を考えるのではなく、ひとみさんの「心」を受けとめる事です。我々には包拳礼に「眼神」という「目に気持ちを込める」という教えがあります。…」

その言葉を書いたとき、ようやく答えの最後まで辿り着くことが出来た気がした。

弟子が最期に自分に向けた視線、それは包拳礼だったのだ。

そうだ。

あの愚直なまでに真摯な弟子ならば、きっと包拳礼に全ての気持ちを込めたであろう…。
眼に、全ての気持ちを。

まさに武術家として立派な最期だったのだ。

逆に言えば、自分はまだまだ師として、武術家として未熟だということだ。
武術家として弟子の最期の包拳礼を受けとめる事が出来なかったことは、生涯の戒めとなるだろう。

そして、包拳礼に気づけなかったことで、答えを出すまでに随分遠回りをしてしまった。
もちろん、その遠回りのおかげで自分にとって大切な出来事もあった訳なので、その事にも重要な意味があったようには感じているのだが。

そうした事も含めて今にして思うのは、「心、意、氣、力」で言えば、朝日を浴びながら浮かんだ答えはあくまで「意」の段階における答えだったのだ。そして「心」の段階の答えは「包拳礼」。そう考えればあのときの弟子の姿が、「心、意、氣、力」を全てを貫き、一つとなる。

そんな素晴らしい弟子に、このブログをもって、あらためて包拳礼を捧げる。

「葉桜」 ~最初の弟子のこと~

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話は、前回のブログ「嬉しい日」に書かれた前日に遡る。

土曜日。宇童会の始まる時間の前には、いつも弟子と一緒に、喫茶店でその日の参加者の確認や、軽いミーティングを行うのだが、その日はいつもと違っていた。

弟子が病院から退院したその足で来てくれたのであった。

一度は消えた肺の癌だったが、今では全身が癌に侵された状態であった。喫茶店に現れた弟子は、ようやく身体を保っている状態で、本人の気力と、太極拳で培った丁寧な体重移動で、ゆっくりと、一歩一歩を踏みしめるように歩いてきた。ほんの数歩の距離を、ギリギリの集中力で支えていたのだ。

本人は今回の教室もせめて短時間の見学だけでもと思って来たわけだったが、すぐにそれすら無理だという事がわかった。どの体勢でいてもすぐに痛みが強くなる。とても短時間すら持ち堪えられそうになかった。

そんな様子を見ながら、店内の空気が少し冷たかったので、車の中は暖かいだろうと場所を移し、話をしがてら宇童会が始まるまでの短時間、プチドライブをしようという事になった。

ドライブと言っても、行き先はいつも朝の自主練習会を行っている公園を見に行こうと思ったのだ。

その自主練習会のスペースには以前、ある日突然、枯葉やゴミの山が置かれるようになってしまった事があった。それを弟子が市に必死でかけあいながら、何人かの有志でそこを掃除して綺麗にし、職員に確認してもらうなどの努力をして守ってきた大切な練習場だったのだ。

だが、駐車場には着いたものの車から下りて歩く体力もなく、車の窓を開けて、そこから吹き込んでくる風を感じながら、練習場のある方を眺めた。

公園の隣には高校があって、道沿いに葉桜が咲いていた。

その姿に、桜の散る儚さよりも、新しく芽生える生命の息吹を感じた。

弟子の命はもう長くない。それが痛いほど伝わってきて、余計に新しい生命が眩しかった。

そして、「嬉しい日」だった次の日曜日。
その時のブログにあえて書いてなかった事。

その日も弟子は、拝師弟子練習の為と、例の2人の生徒を自分に会わせる為に、身体に鞭打って出てきた。

入院中の拝師弟子練習は座学が中心であったが、弟子の最後のお願いという事で今回はお休みとし、2人の生徒が経営している喫茶店に行くまでの時間、初めて出会った北名古屋市の公園を見に行くことにした。

そこで、弟子に套路を幾つか見せる。ここが始まりの場所であった。ここから宇童会が生まれたのだ。

その後、喫茶店の駐車場に着くと、しばらくの間、弟子は目をつぶって身体中の気力を振り絞るべく休む。だが、もう身体にほとんど力は残ってなかった。弟子の腕をとって身体を支えてやりながら店に入り、陶芸の飾ってある一階から、喫茶店スペースの二階へと階段を登る。

もう、2人の前で元気な姿を見せる為に、無理をして頑張らなくても良いのだと、階段を、手を引いて一歩一歩登りながら、心の中で涙が溢れた。

お二人の名前は「正子」さんに「いずみ」さんという。「正」は明鏡に繋がり、「いずみ」は明鏡止水を思わせる。お二人とも明鏡拳舎に何かしらの縁を持って現れたようにも感じた。

その後の事は「嬉しい日」のブログに書いた通りだ。

特に、太極拳をし終えた後の目の見えないいずみさんの明るい笑顔が、本当に心洗われるようであった。

そんな様子を、弟子は嬉しそうに、ホッとしたような表情で眺めていた。

ーーーーーーーーーーーーーーー
平成27年 5月8日
開門弟子・加藤ひとみさんは永遠の眠りについた。

2年以上の闘病、痛みと苦しみからようやく解放されたのだ。弟子にとって生きるという事は、常に痛みや苦しみを伴うものであった。それでも弟子は生きる道を選び、最期の最後まで戦った。我が門の「今出来ることを丁寧に工夫しながら行いながら、少しでもいいから前進すること」を真摯に守り抜きながら。

途中で気付いた事。それは「お疲れ様、よく戦ったね。」そう言ってあげられるのは、痛みがなくなるのは、もはや死を迎えた時しかなかったのだ。

初めて出会った公園を見ながら、

「死ぬのは怖くない。死んでしまえば、痛みも気にせずに自由に練習出来るから」

そう呟いていた弟子であった。

いつだって工夫し、ベッドに横たわりながらでも練習をしていた弟子。危篤状態になる前日までそれは変わる事はなかったと、ご家族がその様子を伝えてくれた。

いつか治った日の為に、いつか元気になった時の為に、その功夫が活きるような内容を二人で模索し、闘病の間も積み重ねてきた。ほんの少しでもこの武術を磨く為に。前に進む為に。

この未熟な師匠の元、共に真摯に学びあってきた。

今なら「本当によく頑張りましたね。お疲れ様」と言えるのだけれど、弟子が「先生~。今、練習中です!」と笑顔で答える顔が目に浮かぶようで、むしろ「これからは距離も関係なく、いつでも、何度でも套路を見せてあげられますよ」と言ってあげた方が相応しい気がしてしまうのだ。

自然が大好きで、真摯で、本当に優しい心を持った弟子であった。

そんな素晴らしい弟子に出会わせてくれた人生に。
そして、自分に生き甲斐と教える事の喜びを与えてくれた弟子に、感謝を込めて。

願わくば、あの葉桜の風景のような場所で、風に花びらが舞う中、弟子が伸び伸びと自由に、私達の武術を練ってますように。

嬉しい日

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先々週の日曜日は嬉しい日であった。

それは、初めて弟子が教えている生徒に会うことが出来たからだ。
そして弟子が教えた太極拳をその生徒さんが打つ姿を見ることは、こんなにも嬉しいものなのかと、しみじみ感じ入った日であった。

もっとも、弟子のH.Kさんには正式な教練資格を与えているわけではないが、これには理由がある。

昨年の秋からの事だが、教室には参加出来ない方の為の別枠として、H.Kさんが教授代理として新たに教室を開く事を許可した。そこで習っているお二方は母娘で、喫茶店を経営している関係でどうしても時間が取れない事もあったが、もう一つの大きな理由として、娘さんの方は目が見えなかったのだ。全盲で光すら感じる事が出来ない。

つまり一生、先生の套路を見る事も出来なければ、自分がどういう姿をしているか確認する事すら出来ない。「学ぶ」という言葉は「真似ぶ」から来ているが、同時に様々な部分が連動して動く太極拳を、その学習の最も基本と言える「見て真似をする」という事が全くもって出来ないという事は、かなりの試行錯誤や工夫を余儀無くされるのは想像に難くないだろう。

H.Kさんは今までにも、療養先のサナトリウムで院長先生の奥様に請われて教えたり、やはり療養に来ていた作家でもあり監督経験もある才能溢れる女優さんを含め、短期間ではあるものの幾人かを教えたりすることになった時もあった。

その時も自分は自信を持って任せる事ができたし、お二人についての話を伺った時も、全盲という自分自身も未体験の難しさを思いながらも、やはりH.Kさんなら大丈夫だと信頼する事が出来た。H.Kさんには時に人一倍厳しく要求しながら、お互い真摯にこの武術に向きあってきた日々の積み重ねが、それを絶対的なものに感じさせてくれる。

教えるという事については、自分自身でも経験している事だが、いざ、この武術を教えるとなると不思議な事に次から次へと教える事が浮かびあがってきて、教える事に困る事がない。また、時と状況に応じて様々に工夫するだけの理解が備わっている事にもあらためて気づく。

むしろ教えれば教える程様々な気づきがあり、こんなにもたくさんのものを自分は習っていたのだと、振り返るのだ。

実際に自分が会ってみるまでに、H.Kさんから聞く新しい教室の様子は、実に興味深いものであった。

我々が大事にしている「まず自分の身体を感じる」ということ。それがまさに、教えた事に対して娘さんから帰ってくるリアクションや言葉は、「感じる」という事の純度の極みと言えるものであった。ナチュラルに出てくる感想が、まるで内功武術の核心部分について話をしているかのようでもあり、一言一言が実に豊かな内容に溢れていた。

H.Kさんが、工夫しながら確かなものを教えている様子が、その内容から活き活きと伝わってくるようだった。

そしてとうとう、初めてお二人の套路を見せてもらったわけだが、目の見えない娘さんが伸び伸びと太極拳を打つ姿に、どれ程感動を覚えた事だろう。それはまさに明鏡拳舎の太極拳であり、同時に、弟子の太極拳であった。

一回一回に進めるのは、ほんの僅かだ。身体にあちこち触れてもらったり、手で導いたりして、全体像を頭の中に構築してもらって、初めて次に進める事が出来る。

まだまだ最初の方の7勢だけではあったものの、ここまでに至る弟子の工夫と、真摯に教える気持ちが、その姿に込められていた。

我々の太極拳とは何か。
その問いに対する答えが、ここにある気がした。
あくまで武術として教え、武術として磨いていく。
そこに「義」がある。

我々の武術には、段や級もなければ、賞とも無縁のものだ。

だが、もっとも大切なものがここにはある。

弟子への返信

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自分がまだ門を率いる立場として新米だからか、師と言うものは常に自問自答を繰り返しているものだな、とつくづく思う。

教えるという事は、遠い道の先を見据えながらも、現状を受け入れつつ次の一歩を示すことだ。何か出来ないことが出来るようになったり、わからないことが分かるようになったという事は当事者にとっては大きな変化だが、大抵は全体からすればごく小さなことで、小さな結果を積み重ねてもなかなか周りからすれば、あまり進歩しているようには見えないものである。

だが、今回は一つの大きな結果を御報告させていただこうと思う。

「収徒拝師式に寄せて」の回に、2014年7月17日に弟子のH.Kさんが、肺に癌が、左股関節のところに腫瘍ができていたことを書いた。
癌による数度の手術を乗り越えての再発だった。もう、抗癌剤や手術に耐えられる体ではなかった。しかも抗がん剤については、最初こそ効力を発揮したものの、その後の2回目以降はほとんど効果がなく、副作用に悩まされるだけだった。
つまりある意味、これ以上医学的には手の施しようがない状態だったのだ。

だが、その癌の再発が発見される前から石原結實先生のサナトリウムにて温泉&食事療法や、いくつかの補助的な自然療法を行っていた。もちろん、その中には我々の内功武術も入っている。

石原結實先生に初めて診察してもらった時の言葉は、手術によって癌が無くなったことを褒められるような言葉ではなく、「予断を許さない」だった。思えばその時から…いや、一度癌になれば、必ずやこの「再発」という言葉が浮かばないときはないだろう。だからこそ、根本的な治癒が必要だという事を強く感じていたし、再発の事実を冷静に受け止めることが出来たのだと思う。

その間のH.Kさんの様子はと言えば、練習中、手術後の痛み等で時々休憩したりはするものの、とてもそんな大変な手術を去年と今年だけで何度もしたようには思えないような元気な姿で、毎回、宇童会に参加していた。

そして、とうとう同じブログに
「サナトリウムでの療養もまだ始めたばかり。
そう。全ては、「これから」だ。」
と書いたことについての経過報告を、書くことが出来る日が来たようだ。

以下は、会員向けの「宇童会だより」という、毎回の練習後にいただく感想に対して一人一人にあてた返信をまとめた会報メールであるが、今回そのH.Kさんにあてた今回のタイトルでもある「弟子への返信」である。

★【宇童会だより435】より

2014.12.13

癌は39度以上で死滅していきますからね。身体はしんどかったでしょうが、我々にとっては嬉しい兆候です。
なにより、今回の検査でHさんの身体から肺に転移していた癌が消えたことが、それを証明してますね。ようやく…ようやく待ち望んでいた“転”の段階に来ましたね!

12/11に届いたメールで

「なぜなら、先生、
信じていましたけれど、信じていましたけれど、信じられないことに、
肺のガンが消えていたからです。
(主治医の)K先生はこんなことはあり得ない・・・と。」

という部分を読んだ時には、「ここまで本当に長かったな」と思わずにはいられませんでした。

やめること、あきらめることはいくらでも理由が見つかりますが、信じて行動し続けることはとても難しい事です。ましてや、数度の手術の上の再発でしたから、その事実だけでも、信じ続けるという事の難しさを物語っています。

正しく信じる事の難しさはそれだけではありません。「信じる」というと、大抵の人が思い浮かべるものは「盲信」か「願望」がほとんどです。しかもその願望には、無意識に(しょせん叶わぬ)がついてしまっているものも少なくありません。

周りの勝手な哀れみやあきらめが渦巻く中で、正しく信じる人は、自分の病気や痛みだけでなくそういうものとも闘わねばなりませんから、一体どんなに孤独な闘いを強いられている事でしょう。

家族とも、友達とも違うのが「師弟」です。

師だからこそ一心に弟子を信じ、今の結果を見てどんなに奇跡のように見える事も我々には確固たる理合があり、選んだ治療法について周りが疑問や否定を投げかける中で、それを実践し続けてきました。

それをようやく皆にも、確かな、目に見える形として示す事が出来たのです。それは治療においても相乗効果をもたらしますから、こんなに嬉しい事はありません。
だから「転」です。

手術で色んなところを切除したりしましたから、もうしばらく身体はバランスを取り戻すのに時間はかかるでしょう。
しかし一歩一歩、大切に大地を踏みしめるが如く歩んで行く中に、内功武術もまた深く身体の中に染み込んで行くに違いありません。

★ここまで

どんなに奇跡に思えることでも、肺の癌が消えたということは、必ず他のところにもそれが起こる「可能性」を含んでいることになる。
0と1ではこんなにも違うものなのだ。

もちろん、最初に緊急の事態で命を救ってもらったのは紛れもなく手術のおかげであり、しかもその先生が天才的な腕の持ち主で、身体への負担を最小限に抑えていただいたからこそ今がある。その事についても感謝しているし、どちらが良いとか悪いとかではなく、どちらも必要なものだ。

だからこそ余計に、様々な治療に対して判断するということや、取捨選択をする勇気を持ち続けることは難しく、更に難しいのは、選んだものを痛みや心の恐れに負けずに、結果が出るのを待つための忍耐が必要ということだ。

いや、人の事より…もし自分なら、これらの痛みや絶望的に思える状況の連続に耐えることが出来だろうか?
弟子は一度も「先生にはこの痛みや苦しみはわからない!」というようなことを一切口にすることはなかった。

だから自問する。

自分は良い師であるか?
必要なことは全て教えてあるか?
それを身に付けさせる努力や工夫を積み重ねてきたか?
悔いを残すような教え方をしていないか?

なにより、弟子がこの武術を学んでよかったと心から思えるよう、自分自身が研鑽を積み重ね、結果を出しているだろうか?

収徒拝師式に寄せて

標準

話は収徒拝師式の二週間前に遡る。

H.Kさんが病院でいつもの腫瘍マーカーの数値の計ると、数値が高くなっていた。
これで、7月20日には完治した身体で何の憂いもなく拝師式を行う事が出来る、そう思って喜んでいた矢先だった。

2014年7月17日

拝師収徒式の3日前。
サナトリウムでの療養から帰ってきて、何とか数値が少なくなることを祈っていた。
13時には診察が終わり結果の連絡が入るはずが、1時間、2時間が過ぎても連絡がない。
不安が心をよぎる。

ようやくメールが届いた。結果は…癌だった。

今まではなかったはずの肺にも2~3mmのものが出来ていた。
だが、それだけではここまで腫瘍マーカーの数値は上がらない。
最近、痛みを訴えていた左股関節のところに影の塊があった。おそらくこれだろうとのこと。

一瞬、またしても…という思いと、なぜ…という思いが交差する。
しかし、確かにショックではあったが、自分もH.Kさんも不思議と心は落ち着いていた。

「世にも美しいガンの治し方」というHPを見て、そのサナトリウムで治療を始めていたからかもしれない。
去年4月にステージ4の癌がわかって、抗癌剤と手術しか手立てがなく、
真っ暗闇のような状態だった時とは違い、今は、やれることがある。希望がある。

病院のベッドの上で、点滴に縛られることもなく、
身体も思いっきり動かせるし、のびのびと武術も出来る。

サナトリウムでの療養もまだ始めたばかり。

そう。全ては、「これから」だ。

2014年7月20日

師父、師父の義兄、弟弟子に見守られながら、予定通り「内功武術 明鏡拳舎」の収徒拝師式が執り行われた。

形式こそ道教的な要素はいろいろと残しながらも、宗教的な意味は一切排除して純粋に師弟の関係を結ぶ場としたのが、師祖父の代からの収徒拝師式だ。

前回も書いたものに補足するならば、我々は套路という、いわゆる型というものを通して先人の知恵や工夫の詰まった叡智を学びながら、現代においてそれを学び伝えていく者の責任において研鑽しながら必要に応じて変化させていくように、我々の収徒拝師式も同様に、形を通すことでただの気持ちで終わらせることなく、先人の教えや心をも同時に受け継ぐことであり、自らもまたより純粋に武術の門として完結するための一つの在り方を示したものだろう。

形は、単なる形ではないのが我々の武術である。

形一つ一つに、経験を通して代々積み重ねられてきた意味があり、智慧があり、想いがあるのを知っているからこそ

形だけではなく、
心だけでもなく、

それらをさらに昇華させた、心と智慧が合わさった形としてその意義を味わうことも出来る。

H.Kさんが明鏡拳舎の開門弟子となったことには深い意味を感じている。

一つには「この武術に必要なものはただ一つ。真摯に学ぶこと」という言葉、そのものの人柄であるという事。
その言葉が、けっして建前ではなく真実であることを証明してくれたのである。

そして、なにより「明鏡拳舎」の「明」の字の意味をはっきりと方向づけてくれたこと。
それは武術が持っている二面性である「生=明」の部分を、これほど体現し、感じさせてくれる人物はいないだろう。

「生=明」の音の響きは、そのまま「生命」にも繋がる。また「生命(せいめい)」は師祖父の名前とも韻を踏んでいて、なんとも言えない繋がりを感じるのだ。

自分の拝師式の時に、師父がどんな気持であったか。今、それをしみじみと全身でわかったように思う。
そうだ。きっと師父もこんな気持ちであったのだろう。

…いや、右腕に麻痺が残る手で、長い時間をかけて一文字一文字、想いをこめて証書を書いてくださった分、もっともっと深かったに違いない。

師父の境地にはまだまだかなわない。

だからこそ、これからもしっかりと門を育てていかなければ。

開門弟子のご報告

標準

一昨日、2014年7月20日。
「内功武術 明鏡拳舎」にて、初の収徒拝師式が行われました。

最近、「成長」のタイトルで数回にわたって綴ってきたその学生こそが、明鏡拳舎の開門弟子となりましたことを、ここにご報告致します。

見證人には、私の師父と弟弟子が。主持人には私達の時と同様に師父の義兄に務めていただいて、心に染み入るようなおごそかな収徒拝師式を行うことが出来たことを、深く感謝しております。

我々は、套路といういわゆる型というものを通して先人の知恵や工夫の詰まった叡智を学ぶわけですが、収徒拝師式という形があるからこそ、そこに関わる人々や先人の心や想いが、そこに込められるのだと深く感じます。

そのような積み重ねに畏敬の念を覚えるとともに、このような素晴らしい弟子に巡り会えたことに、それを師父をはじめとして皆で祝っていただけたことに、全てに感謝致します。

宇野道夫 拝

成長 ~ 近況 ~

標準

「成長」ということをテーマに日記を紹介してきたが、そこに登場するH.Kさんは最近あるサナトリウムに療養にいき、様々な出会いや経験をしてきたようだ。本人は「一人合宿」と言っていたが(笑)、サナトリウムから送られてくるメールの内容を通して、その様子が活き活きと伝わってくる。

どんな人との出会いがあり、
どんな言葉をかけられ、
その中の誰が教えを請い、
教わった人がどういう言葉を語ったか。

その一つ一つに、タイトルにある「成長」を感じずにはいられなかった。

ある外国出身の婦人は習った後にこう語ったという。
「明日、お帰りになる前にもう一度お時間をいただけませんか。今日、家に帰って練習してきます。次にお会いできるまで、間違った動きを練習しても意味がありません。正しい動きでできているか明日見ていただけないでしょうか。」

このような人を惹きつけることが出来るだけの武術がH.Kさんの中に育っているのだと、喜びの気持ちが湧き上がってくるのを感じた。

だからこそH.Kさんのことを書く為に、あえてmixiを選んで友人限定にした日記をここに紹介することで、まずは人となりを知ってもらおうと思ったのだ。

H.Kさんが家に戻ったあとに「その時の様子を日記か何かにしてまとめておくといいですよ。」とアドバイスすると、療養中にくれたメールも間に挟む形で、長い長いレポートを送ってくれた。改めてまとめて読むと真摯に積み重ねてきたものが、色んな形で結実し始めているのが文章から伝わってきて、感動さえ覚えるものであった。その全部を紹介したいところではあるが、全文は紹介しきれないので、結び近くのまとめの部分だけ抜粋して紹介したいと思う。途中、生姜や人参といった食べ物が突然出てくるのは、サナトリウムの療法と関係があるものだということをあらかじめ説明しておく。

◆サナトリウム・リポート(抜粋)

サナトリウムの10日間を通して、今、感じていること。
直観力が強くなった。“気づき”の力が前より増している。
自分の状態、つまり、武術としての動きや、感情や、身体的なことや呼吸や、自分のまわりのことや
…そういうものに気づくということが、どんなに大切なことか、どんなに自分を大切にし、そして他者を大切にすることに繋がるか、やっと実践のレベルでわかった気がする。花一輪、葉っぱの一枚がどんなに秩序を持ってそこに美しく存在しているか、そんなことを気にとめる人は少ないだろう。けれど、自然の中で立っている植物たちの姿に骨格と筋肉を感じる。それに、私は今、植物たちの力を借りて生きている。生姜も人参も林檎もキャベツも…。
よく見て、”気づき”を得られることが多くなった。
練習のとき投げかけて下さる先生の言葉も見せていただく形も、氷山の一角のようにしか理解できていなかったのではないか、しっかりと気づけていなかったのではないかと、そのように思う。
真からの“気づき“につながるときの心のあり方を学んできた、そういう気がする。そして、それは太極拳の99勢のように、いつもこの身とあるものになった。
瞑想をする人は呼吸の始まりを感じ呼吸のおしまいを見届け、それを繰り返す。私はあえてそれをする必要を感じなかった。
なぜなら、太極拳は呼吸そのもの。打てば、柔らかく深く必要な分の呼吸ができる。
私の呼吸、だから、命ある間、この太極拳を打つ。

◆(ここまで)

ついでに、先週の土日は愛知県にある宇童会という教室があったわけだが、その時にもこんな感想をいただいている。

◆7/12・13感想その3より(抜粋)

サナトリウムでの一人合宿の十日間から今回の宇童会、いろいろありすぎで、書き切れません(笑)。
どこででもいつでも豊かな時間をいただいていて、ありがたく感じております。
先生が北名古屋市の公園で套路を打っておられ、それを拝見して、教えを受けた2009年7月20日からあと数日でもうすぐ丸5年。あの初めての日に教えていただいた上歩打擠までの三手が、錆び付くどころか今なお面白いなんて、深いですね、先生の武術は。熱しやすく冷めやすい私が熱したままです。

◆(ここまで)

そして今日が、その出会いから丸5年目の日だ。