武術修行記 ~番外編~(2)

標準

友人に紹介してもらい、初めて体験した中国武術は、実に面白く感じた。
套路というアプローチにはあらためてなるほどと思ったし、だからこそ最初の二年は夢中になって練習したものだった。

練習中は形の説明はあるものの意味的な説明はほとんど無く、ただ黙々とキツイ練功や套路を繰り返して行く。
先生にたまに技をかけてもらうと、確かな練りこまれた威力を感じたし、時に先輩が解説をしてくれると、「なるほど、先になれば詳しく教えてもらえるのか」と思ったりもした。

だが…。
確かに、中国武術を習うときのエピソードには、最初のうちはただひたすら一つのことを繰り返していたとか、先生に言われるがままにただ練習を繰り返したという話も多いが、一方で漫画「拳児」や雑誌に書かれている先生方の記事から伝わってくるものとは、何かが違っている気がした。
ある先輩は何故か自信ありげにこう言う。「10年以上やっているが、全くわからん」

仕方なく、足りない知識は、技術書や雑誌を買い漁りながら補っていった。
有名な先生が解説しているのを読んでは「ここではこんな風に詳しく習えるのだろうか?」と心のどこかで羨ましく思いながら。

だが、ある技術書を読んでいたときのこと。その作者がたいしたことがないことを、さも秘伝でもあるかのように得意気に書いているものを読んだ時、思わずバシッと本を閉じた。
「自分はなんでこんな安っぽくてくだらない本を読んでいるのか!?」

いや…ある意味「読まざるを得ない」のだ。そのくらい、わからない何かに飢えていた。
そしてふと気づく。
「自分はこうした知識をキチンと学びたいからこそ、道場に通い始めたのではなかったのか?」と。

ちょうどその時、インターネットではいろんな情報が一気に流れ始めていた。玉石混交とは言ったもので、その時はわからなかったのだが、素晴らしい先生方が書き込みをされていた時代でもあった。
そこに書かれてある体験談や内容は一修行者の立場で書かれているものが多く、雑誌で読む内容のとは違って、実に生き生きとしていた。なぜこの人たちはこんなに知識や経験を持っているのだろうと羨ましく感じた。

こうして比べるものがあると、先輩がたまに詳しく教えてくれると思っていたこととはやはり雲泥の差があったことを思い知らされる気持ちであった。

「3年かけて良師を探せ」という言葉が浮かぶ。

決して学んできた先生が悪かったというわけではない。なぜならその先生の技にも惹かれるものがあったし、だからこそ2年以上にわたって学んできた。

…だが、自分が習いたい武術はやはり違うと思った。

そうだ。今からでも自分の足で先生を探そう。
自分が習いたいと思う武術を教えてくれる先生を。

ある実践派をうたっている先生のところへも体験に行った。
たまたま大学時代の少林寺拳法の後輩もいて、しばらく通ってはみたものの、やはり違う気がした。

そんな中、インターネットで一際自分が惹かれる文章を書かれる人がいた。
この人はなんて素晴らしい知識と経験を持っているんだろう。
この内容はとても想像で書けるものではない。

藁にもすがる思いで、期待と不安に胸を膨らませながらその人にメールを送る。

それが師父だった。

師父に初めて習ったときの感動は忘れられない。
「この人は、なんと生き生きとした中国武術を教えてくれるのか!
そうだ!自分はこんな武術を習いたかったのだ!!」
そんな思いが身体中を駆け巡った。

そしてこうも思った。
「たとえ自分のことはどう思われていようと、この人こそ自分の先生だ!」
と。

あれから十数年が経つ。

今も、その基本的な思いは変わらない。
むしろ益々深みが増しているし、その武術は自分の想像を遥かに超えた素晴らしいものだった。

同時に、師父のおかげでいろんな素晴らしい先生方にお会いしたり、見事な技を見せていただいたりと見聞を広めることも出来た。

それは紆余曲折を経たからこそわかる「ありがたみ」でもあるが、今となってみれば、その彷徨っていたことも含めて、経験したこと全てが貴重な学びでもあった。
特に教える立場になってみると、その経験が更に活きているのを感じる。

「この武術に出会えて良かった!」

そう言い切る事に、何の迷いもない。

その上で、戦いの中でお互いに学ぶこともあれば、純粋に交流によって学ばせていただくこともある。
ただしそれは、お互いが自分の門に真に誇りを持ち、お互いに尊重しあえればこそだ。
そこが武術の世界ならではの厳しさであり、懐の広さでもある。

かなり省略した内容ではあったが、これが自分の武術修行記である。

武術修行記 ~番外編~(1)

標準

武術修行記は第一部で終える予定であったが、リクエストも多かったので、番外編としてその後の経緯をざっと書いておこうと思う。
合気道編の終わりの部分と若干重複する部分もあるが、合気道修行を終えて東京に戻ってからのところから始まる。

熊本での合気道修行を経験した後は再び大学の少林寺拳法部に戻り、およそ殺伐とした他大学の体育会系拳法部とはまったく無縁な和やかな空気の中、汗を流していたわけだが、多少語弊のある言い方をさせていただくと、片や理論を大事にした少林寺拳法、片や感覚を大事にする合気道と、二つの全くといって良いほど対照的な武道を経験した後は、自分の中にかなりの変化をもたらしたのであった。

例えば少林寺拳法の柔法で、投げに入る前の仕掛けの要素である「崩し」。
崩しとは、柔道の「八方崩し」のように、まず相手を崩す方向が大事だと強調されるのであるが、その通りの方向へ相手を崩しているつもりでもなかなか上手くいかないことが多々ある。ところが、合気道の力の流れに対する感覚を経験した後では、その方向へ崩しているつもりでも、実際にはただその方向へ引っ張っているだけでそう思い込んでいただけで、相手の状態を見ると、相手の緊張具合や重心の位置が技を仕掛けている方向とはまったく噛み合っていないということが見えて来た。もちろん、当時の少林寺拳法の機関紙「あらはん」などの技術解説でも、崩しの際に「相手の物体化」というようなことを言っていたと思うが、実はその状態を作り出すことこそもっとも感覚的で繊細な技術が必要だったことに気付いたわけである。

と、こんな風に細かい話をすると話が長くなってしまうのでその他は割愛するが、柔法だけでなく突き蹴りが主体の剛法も含め、いろんな意味で技が変わっていったのであった。

そんな大学四年の夏休み明け。一応教職課程を取っていたので教育実習があったわけだが、これがまたしても大きな転機となる。
教育実習生として実家に戻った二週間の間に待っていたのは、大東流合氣柔術との出会いだった。

今からすればなぜそんな話をしたのかとも思うが、たまたま夕食のときにまったく武術とは縁の無い父親に
「会津には大東流っていう武術があったんだってね。」
という話題を振ったところ、なんと知り合いが大東流を習っているという。大東流合氣柔術が元は会津の武術とは知っていたが、まさか今もまだ残っているとは微塵も思っていなかったのだ。しかもそれは話から察するに武田惣角の血縁者の方らしい。

大東流はもちろん習えるものなら習いたいと強く思っていたのでお願いしたところ、幸いにもお電話にて許可をいただくことができて、教育実習中よりも大東流の為に実家に帰っていたような二週間となった。(笑)

ところで、その先生はとにかく表に出るのを嫌う先生で、見学も許してはいない。
なのでここでは御名前を出したり、その一切の内容についてお話しするのは控えようと思う。

実習期間を終えて東京に戻ると、もうなかなか習えないなと残念な思いだったのだが、幸運なことにそこで大東流とその先生との縁が切れることはなかった。

大学を卒業したあと研究生として大学に残ることになった年の4月のある日。一本の電話がかかってきた。

それは大東流の先生からの電話だった。なんと4月から縁あって東京でも教えることになったという。月に3回。しかも水曜日の午前中という普通には厳しい時間帯であったが、研究生として残っていた自分には問題なく、回数は少ないものの継続的に大東流を習えることとなったのである。

大東流は本当に面白く、素晴らしい技の数々であった。一時はずっとこの武術を続けて行きたいと考えていた。ところが、研究生が終わり、アルバイトで暮らしているまではその時間に通えていたものの、26歳で就職すると、一気に練習に参加するのが難しい状態になってしまった。有給を取ったり実家に帰ったりしてなんとか繋いでいたものの、一年に習える回数には限界があった。元々月に3回ですら少ないと感じていたのだ。大東流はやはり練習相手がいてこそである。焦りや諦めが募っていく。そんな状態で気づけば7年が過ぎていた。その時点で振り返ってみれば、まともに習えていたのは最初の2年くらいか。

それと並行するように、会社の友人が某所で中国武術を始めた。黙々と一人で套路を練る様子を羨ましく眺めつつ、心が揺らぎ始める。いっそのこと中国武術に移ってしまおうか、と。そもそも大東流も知ったきっかけは漫画の「拳児」であった。中国武術にも興味が無かったわけではない。ましてや自分は会社で「水滸伝」や「三國志」のゲームを作り、小説「紅楼夢」にもはまり、さらにその時はちょうど徳間書店から金庸小説の翻訳が出て夢中になっていた頃であった。(後に金庸先生の公式ホームページにてキャラクターの絵も描くことになる。)

ある日、とうとう一つの決断をくだした。
そして思いきって、その友人に習っている場所を尋ねたのだ。

それが中国武術へ入っていくきっかけとなったのである。

-つづく-

武術修行記 ~合気道編~(4)

標準

◆合気修行の成果

指を取りに行って、掴んだと思った瞬間に、正座のまま一回転した自分。

それは、この二週間にかけていただいた全ての合気とはおよそかけ離れたものだった。だがそれは、秘伝があってやり方の違いという感じのものではない。自分が感じたものを一言で言うなら、技の「純度」の違いであった。砂泊先生の合氣は澄み切っていた。

何とも言えない気持ちに包まれる中、なんと砂泊先生は今の技の原理について手を取ってその軌道を教えてくださったのだが、投げる原理としては関節技の応用だという理屈はわかるものの、それ以前に「合気」が自分にはわからない。
どうしたらいいのかと思っていると、砂泊先生にもそれが伝わったのか、技をかえて合気の基本の感覚を自分の手を取って導くように教えてくださった。

取られた手から力を流して相手に入り込むという事。いくつかの形をとる中で力が身体の内部をどう流れていくのかがわかった。そしてその逆も順々に導いてくださった。

不思議な感じがするが、砂泊先生の合気は相手の最も力の出るところから、逆にそれを辿っていくように入り込んでいく。砂泊先生の合気の手は巻き込むような通称「猫手」が有名だが、普通の合気道のように開いた形は「陽」、巻き込むような形は「陰」なのだと、手を取りながら合気の感覚と共に説明してくださった。
砂泊先生は大本教の繋がりで植芝翁の弟子になった方だったからこその説明ではあったが、こういった発想も今になってみれば内功武術の陰陽の考え方と非常に重なるものだ。

それで「合気が分かった」とはおこがましくて言えないし、その時の合気の感覚がどの段階に位置するかはわからないが、とにかく自分の中で一気に何かが得られたのは間違いなかった。事実、今まで出来なかったことが出来るようになっていたし、自分の中に明確な一つの感覚があった。

その日の夕食は、再び砂泊先生のお宅に招かれて、奥様の手料理をご馳走になった。そして食事が終わり、教えていただいたお礼を述べると、砂泊先生はすっと立ち上がり本を2冊出してこられた。ご自身の著作である「合気道の心を求めて」と「続 合気道の心を求めて」だった。そして筆と墨を用意すると、一冊一冊に自分の名前と砂泊先生の名前とを書き添えてくださった。それが「武術修行記 ~少林寺拳法編~(3)」に予告として乗せた写真だ。それを自分に贈ってくださったのだった。

今こうして思い起こしても、感謝してもしきれない、素晴らしい経験をさせていただいた。

道場に戻ると、そこで寝泊まりするのはこの日が最後だと思ったが、感慨にふける間もなくすぐに眠ってしまった。
そして…翌朝の稽古に参加して、熊本でのすべての合気道修行を終えたのだった。

途中、岡山で一泊しながら、二日かけて東京に戻ってきたのだが、電車の中で何度も何度も、習ってきた技と、最後の最後につかんだ合気の感覚を噛み締めていた。

合気の感覚が身体に入ったことで、少林寺拳法の技が変わっていったことは言うまでもない。また、練習に対する考え方も変わっていた。理論と同時に感覚も大事にするようになった。
松田先生の「これぞ少林寺拳法」と言う体系的な考え方や身体の使い方によって技が変わっていったのに加わって、合気の感覚を得たことでさらに技が変わっていった。分かり易いところでは突きの威力が、その二つの過程を経るたびに段階的に上がっていったのである。

そして大学四年の秋。教育実習で実家の会津に戻っている最中に大東流合気柔術が武田惣角先生のご出身である会津坂下に残っていることを知り、まさかの展開が待っていたわけだが、武術修行記はこの辺で一旦終了しようと思う。

自分が習った大東流合氣柔術もまた本当に素晴らしい武術で、惣角先生の解釈の入った小野派一刀流と共に学ぶスタイルは、中学生の頃に剣道をやっていたことも含めて、ここに全てが繋がったとすら感じた武術であった。しかし、その後のまさかの展開によって、東京でその先生の大東流合氣柔術を続けられることになったことも縁なら、途中で仕事の関係等でどうしても継続できなくなり、中国武術の世界に入って師父と出会う事となったのも縁だろう。

自己紹介と、ここまで自分を成長させていただいたそれぞれの武道・武術に感謝の想いも込めて書き始めた武術修行記ではあったが、やはり自分の門を構えながら他派の武術をいろいろと語るのは、失礼なことでもあったかもしれない。

そんなわけで、武術修行記の~大東流合氣柔術編~以降をどうするかは今のところ未定だが、ブログにおいては再び「内功武術 明鏡拳舎」について語っていきたいと思う。

(武術修行記 第一部 完)

武術修行記 ~合気道編~(3)

標準

◆合気とは?の答え

早朝。合気修行は朝6時から手取神社の境内を掃除するところから始まる。こんなところがいかにも修行っぽい(笑)。しかも、道場の畳の上で朝、目を覚ますのは、なんとも気が引き締まる気分だ。

練習は砂泊先生流の受け身を覚えるところから始まった。それも前回りではなく後ろ回り受け身から始めるのだが、なぜそれから始めるのかという考え方や、練習段階の方法が面白い。
後ろ受け身が出来たところで、通常の練習に参加させてもらえるようになるが、少林寺拳法の受け身の経験があるので、最初は戸惑ったもののコツはすぐに掴めた。これは良い後ろ受け身だなと思った。

いよいよ、合気の技の練習がはじまったが…これまたなにもかも戸惑ってしまう。そもそも力を抜くというのがわからないし、その状態で「ここで合気をかけて~」と、感覚的な練習がひたすら続くわけである。
たまに関節技が出てきてそれは少林寺拳法とも通ずるとことがあるが、合気道では少林寺拳法のようにガッチリかけあう事はなく、むしろ、相手の関節を伸ばして代謝をよくしてあげるのだという気持ちで、流れや感覚を重視した練習スタイルだった。今でこそ、その練習方法の良さとポイントがわかるものの、当時はなにか勝手が違う感じだったのだ。
道場の人は皆親切で、練習後もいろいろ教えてくれた。しかし、それでもやっぱり、力を抜くという事がわからなくて、同じく道場に寝泊まりしていた浜田先生に「やっぱり力を抜くという事がわからない」という質問をしたりもした。その時、浜田先生は人差し指をスッと出して、掌で押してみるようにと言われて、そのように押してみたがやはりビクともしなかった。

浜田先生に言われた言葉で一つ心に残っている言葉がある。それは「技は才能ではなく、誠実さでおこなうのだ」という言葉だった。

道場の人たちも皆、こういう練習を何年も積み重ねてその技があるのだ。いくら集中してやろうと一週間やそこらで、どれほどのものが身につくだろう。
今でこそ内功武術を教え、意識や感覚という事を当たり前のように語ってはいるが、「感覚」ということについて徹底的に悩んだ、この時の経験があるから今の自分があるのだと思う。

悩みながらもなんとか練習についていっていたものの、本当にただの体験で終わってしまうかに思えた時…自分が帰る前日の日曜日がちょうど各地から有段者が集まって練習する有段者会になっていたのだが、浜田先生からそれに参加しても良いという事、そして、砂泊先生がその有段者会で教えられるとのお話を伺ったのであった。

有段者会当日。まずは砂泊先生が有段者たちに一人一人次々に技をかけていく。その日おこなっていたのは、指取りで相手に指を掴まれたところを投げるという技だった。一通りかけ終えると先生の合図で、各自分かれて練習を行う。
自分はそれを見学していたわけだが、砂泊先生は、各々練習するのにまかせてこちらに歩いてくるのが見えた。そして、目の前に正座で座ると、有段者たちがそうしていたように先生の指を取って極めてみるように仰った。何が起こるのかと思いながら、言われたとおり指を掴んだ瞬間…、

「!?」

世界が上下逆になっていた。
自分が正座のまま、頭が畳の上スレスレに浮いた状態なっているのがその短い時間の中でわかった。

そして次の瞬間にはバターンと勢いよく一回転して畳の上に投げられた衝撃!

「…これが合気か!」

30年間、力を抜く事をひたすら追究し、貫いてきた技がそこにあった。

本当に「柔の極致」とも言えるような、まさに目が覚めるような技であった。

次回に続く。

武術修行記 ~合気道編~(2)

標準

◆砂泊先生

自分が惹かれたのは、同じ一流の先生でも例えば「剛の合気」を感じさせる塩田剛三先生の合気ではなく砂泊先生の「柔の合気」だった。

「技が効かないという事はいかに惨めか、気持ちがどん底まで落ちた状態です。それが私の一つの貴重な経験なのです。」

と語り、

「和合とはどういうことか、それには力を抜く以外にないのです。体力で相手にぶつかっては駄目なのです。そういうものを私は毎日頭の中に入れ、その心の世界を技の面で表してきました」

と仰る砂泊先生の技はいかなるものだろう?

そんな砂泊先生の技なら「本当の柔の極致は大東流だけだよ。」という佐川先生の元弟子の方の言葉もわかるのではないかと思った。もちろん、そう思うくらいなら佐川先生に直接習いに行けばよかったのだろうが、その時は佐川先生の事は良くわからなかったし、元弟子の方にも会ったのは後にも先にもその時だけだったので、その時にその発想はなかった。後に、佐川先生は国分寺のあたりで教えていて「習うにはまず手紙を手紙を出して、それを読んで気に入ってもらえた人だけ教えてもらえるらしい」という話はどこかで聞いた。ただ、そこで仮に佐川先生に習えていたら、もしかしたら明鏡拳舎はなかったかもしれないと思うと、これも縁だと思う。

熊本に着くと、路面電車に乗って手取神社(手取天満宮)へと向かう。その隣に砂泊先生の道場はあった。迎えてくださったのは内弟子の浜田先生だった。当時、砂泊先生は足を患っており、練習は浜田先生が取り仕切っていた。挨拶の後、浜田先生が連れて行ってくださったのは砂泊先生のご自宅で、素朴な美しさをもった品のある奥様と共に砂泊先生が迎えてくれた。家も貸家とのことで質素なたたずまいであったが、そんな中、砂泊先生は自分がわざわざ東京から訪ねてきてくれたということで大変に喜んでくださって、夕飯もご一緒させていただいた。
名もないただの一介の学生をこんな風に迎えてくださることに感激しつつ、奥様の手料理を味わいながら、普段自分が技について疑問に思っていることや、先生の技がどういうものなのかという質問をいくつかさせていただいた。そんな中、スッと砂泊先生が腕を差し出した。そして「押してみてください」という。

「いよいよ、合気とはどういうものか経験することが出来るのだ。」
そんな思いが、瞬間、頭をよぎった。

胸がドキドキするのを抑えながら、先生の手首を握って押そうとした…が、先生の腕を掴んだ途端に、なぜか全く力が入る気がしない。それでもしっかり先生の手首をぎゅっと握って思いっきり押してみようとするのだが、砂泊先生は全く力を入れている様子がないのに、腕も身体もびくともしないのだ。不思議がる自分に、これが力を抜くという事だと、相手と結ぶという事なのだ教えてくれた。
確かにそれだけでもすごいと思ったが、投げられたりしたわけでも、なにか技をかけられたりしたわけでもないので、本当の砂泊先生の合気の凄さを知るのは、まだ先のことだった。

そして、砂泊先生は足の関係でまだ稽古を見ることは出来ないが、もし、浜田先生について練習に参加してみたいのならば、参加しても良いとのお許しをいただいたところでその日はそれで終わった。
適当なビジネスホテルにでも泊まろうと思っていたところ、砂泊先生が浜田先生を通して泊まるところも手配してくださって、何から何までありがたくお世話になってしまったのであるが、この日は熊本まで来たという興奮と、砂泊先生にお会いできた興奮とに包まれながら眠りについたのであった。

次の日。午前中に浜田先生が迎えに来てくださって、今後どうするかの詳しい話し合いをおこない、2週間ほど稽古に参加させてもらう事にした。練習は、早朝、午前中、夕方の三回。各一時間ずつ。道場に寝泊まりしても良いという事だったので、そのようにお願いして、いよいよ合気道の修行が始まったのである。

次回へ続く。

武術修行記 ~合気道編~(1)

標準

◆合気とは?

合気とは?また、合気道とはいかなる武道なのか?
佐川先生の元弟子の方から話を聞いた後、大東流やそれをもとに作られた合気道に興味関心が募っていく。そういえば、その方はこんなことも仰っていた。
「少林寺拳法か。少林寺拳法も良い技だね。だけど本当の柔の極致は大東流だけだよ。例えば太極拳も柔とは言うけど実際には剛が混じっているが、大東流は柔だけだ。」

今更ながら、自分のやっていた少林寺拳法とはどのようなものであったか?
よく誤解されがちだが、日本の「少林寺拳法」は中国の「少林拳」とは全く違うもので、開祖である宗道臣先生が中国で学んだ技を元に、柔道や空手、ボクシング、相撲その他を研究し再編されたものだ。その技は「守主攻従」という少林寺拳法の特徴にあるように、相手の攻撃をいろんなパターンに分類し、それに対して、受け・捌き等で守り、すかさず突き蹴りや投げによる反撃を行うというもので、非常に分かり易いものである。例えば、手を掴まれたら鉤手手法で守りながら当身、その後関節技で投げる、と言った風である。

少林寺拳法は基本的に、投げや関節技を主体とする「柔法」、突き蹴りを主体とする「剛法」、身体の調整や点穴を主体とする「整法」の三つから構成されている。また、分かり易いという言葉に象徴されるように考え方はシンプルで、かつ理論的に技を説明するスタンスをとっている。柔法では関節技の分類化や柔道で言うところの八方崩しから投げへのプロセス等の解説。突き蹴りでは相手の攻撃を受け流したり、ヒットポイントを外す捌きの技術…等々。

特に蹴り等を腕で受けた時に、角度処理で衝撃をまともに喰らわない技術などは秀逸で、これはつまりどういう事かというと、蹴りを手や足で防御したとしても、それで腕や足を痛めては意味がないのである。単純にヒットポイントを外して威力をなくすではなく、受けた時にどうやってその衝撃を殺すか?その考え方を学べたのは大きく、太極拳の拗歩倒レン猴でミドル~ローキックを捌くのが自分の得意技なのも、この理合のお陰のところもある。というのは技にレンジの広がりを持たせることが出来るからで、レンジが広がれば、それだけタイミングや応用も広がる。ちなみに、拗歩倒レン猴は双辺太極拳にしかない技で、八卦掌との融合の仕方も絶妙な均整のとれた美しい技だ。

やや話は逸れたが、少林寺拳法が理論的であったからこそ、合気と言う存在が余計に気になっていたのかもしれない。もちろん、その時代は中国拳法漫画の「拳児」が流行りはじめていたころだったので、その内容から漂ってくる中国拳法や大東流などの古武術の考え方や動きに、新鮮な魅力を感じていたという事もあるだろう。

大学三年も終わる頃、一通の手紙を書いた。
少林寺拳法では毎年・春休みには、以前書いたように大学合宿と言うものがあり、四国は香川県の多度津町に行く。そこから砂泊先生の教えていらっしゃる熊本へと考えて、砂泊先生にあてた手紙であった。手紙には先生の技や言葉に感動したこと、そして一度技を見学させていただきたいという旨が記してあった。腕を取らせていただけるかもわからない。ただ見て、一日で帰ってくることになるかもしれない。待つこと数日…。先生から返信が届いた。筆で丁寧にしたためられた手紙。返事はOKだった。

大学合宿が終わると、皆と岡山で別れて一人熊本へと向かった。青春18きっぷで、普通電車を乗り換えての旅だ。

合気とは?また、合気道とはいかなる武道なのか?
漫画「拳児」にあった佐川先生の「透明な力」のようなものなのだろうか?

ただ一つ。直観で感じていたことは、合気は一流の先生の技を受けないとわからないだろうという事だった。

次回へ続く。

武術修行記 ~少林寺拳法編~(3)

標準

一回先延ばしになってしまったが、松田欣一郎先生のお話。
あらためて振り返ってみると、この経験が自分にとって非常に大きかったのがわかる。

◆唯一、正しい少林寺拳法!?

少林寺拳法は単独組織としては最大規模の武道団体だ。また、現在の技のほとんどは開祖・宗道臣先生の弟子達によって組織的に体系化されたもので、開祖は一人一人に個人教授の形で技をかけ、それを周りで見ていた人達が「今のはこんな風にかけていた」などと話し合いながら技をまとめていったという話が残っている。そういった背景もあって、少林寺拳法はある意味、絶対と言うものがなく、例えば同じ一つの技でも「先生によって説明や、やり方が違っていても、それは各自の工夫と経験によるものでどれも正しい」というスタンスをはっきりと打ち出している。実際に「逆小手」という技一つとっても、教える先生によって様々だったが、むろん、そういった現象だけで言えば少林寺拳法に限ったことではないだろう。

ところが、自分にとっては「これこそまさに教科書的な少林寺拳法といえるのではないか?」と思うほど、理路整然と、誰もが納得するような形で技をまとめ上げていた先生がいた。それが松田欣一郎先生だ。「あらはん」という少林寺拳法の昔の機関誌で技術Q&Aのコーナーを担当されていたこともあり、もとはウェイトリフティングの選手だっただけに、理論がしっかりしていて、それでいて本に載せられた松田先生の回答は非常に分かり易かった。上手くかからなくて悩んでいた技も、とりあえず文章通りに行えばなぜか技がかかる、そのくらい要点を押さえるのも上手な先生だった。

松田先生のまとめ方を自分なりに解釈するならば、松田先生の技は少林寺拳法の礼法であり構えでもある合掌礼を全ての基本としたものだ。「合掌礼」の形は同時に「合掌構え」でもあり、技の中に出てくることはないが教範にもしっかり構えとして明記されている。一般的な構えとなる開足中段構えや一字構え、待機構え、等々の構えは合掌礼が基本で繋がっており、それも観念的なものとしてではなく具体的な人体の構造や、筋肉での力の発揮の仕方などといった視点からそれを捉えていた。説明の一つ一つがシンプルで理解しやすく、技も効果的で無駄がない。鉤手手法など、少林寺拳法において重要な技法も、全てそこに繋がっていた。

習った時間はほんのわずかの時間でしかなかったが、その考え方で他の技も組み立てていけば、いろんな技が変わっていくのが直観的にわかった。当然その後は、技と共に技の威力もまた見違えてあがっていった。その頃から、技と言うものはどういうものであるのか?ということを、深く考え始めるようになっていたと思う。というより、技に対して漠然と感じていたものが、その経験によって少しずつ見えるようになってきた。それくらい、技が変わったのだった。

今更ながら、この松田先生に習った経験がなかったら、三拳弊習の我が門の武術体系を、今のように自分の考えでもって取り組むことが出来たかどうかはわからない。

少林寺拳法ではもちろん他にも素晴らしいと思う先生はたくさんいる。坂東先生の圧法や整法、中国武術式に言うなら点穴の技術は見事だったし、あんなに軽い打撃で簡単に人は気絶してしまうものなのかとも思った。ただ、このブログにあげた先生方はいずれも他界されており、自分自身、少林寺拳法から離れて20年近くになる。
少林寺拳法には武道専門学校と言うのがあって、月に一回の講習会を受けながら11年かけて卒業する形式があり、大学在学中から社会人になって最初の一年目くらいまで(間に油絵科に研究生として一年間大学に残っていた期間も含む)通っていたこともあるくらい、少林寺拳法に励んでいた時期もあった。

しかし、途中で砂泊先生の合気道に出会い、大学四年生の時には教育実習で会津若松に戻っている間に、武田惣角先生のいた会津坂下町に大東流合氣柔術がしずかに受け継がれていたことを知って大東流に触れてからは、やはり道が分かれていったように思う。もっとも、その大東流もまた、時間や場所の関係で離れざるをえなくなり、途中紆余曲折を経てこの武術に行き着くわけだが。

ということで、少林寺拳法編はここまでで終わり、次回は合気道編となる。

今回はちょっとした予告画像を。(笑)

本とサイン 合気道の心を求めて(本)

武術修行記 ~少林寺拳法編~(2)

標準

武術修行記も、いざ書き始めるといろんなことを思い出すものである。少林寺拳法編とは言っても、今回は合気道との関わりが主となる。

◆合気の足音

大学二年から三年にかけての春休みの事。
工事現場で警備のアルバイトをやっていたのだが、ある日、休み時間に武術関係の本を読んでいたら「おっ、君は武術をやっているのか」と突然声をかけられた。声の主は清掃の仕事で入っているオジサンで、自分が「はい、少林寺拳法を」と答えるとそこから話は弾み、その方は大東流合気柔術・佐川先生の元弟子ということがわかった。もっとも、その時は漫画「拳児」に出てくる佐上先生のモデルが佐川先生とは知らず、ただ名前を知るのみだけだったので、ただそうなのかと思っただけであった。その方に技をかけてもらう事はなかったが、「写真で良い先生の形を見るだけでも、勉強になるよ」とアドバイスをいただいたのが心に残った。それから、本の活用の仕方が変わっていったように思う。

◆転機

転機となったのは、大学三年の時。その年は、少林寺拳法の国際大会が本部のある香川県多度津町で、講習会形式で開かれることになった年であった。それが何の関係があるかというと、その手伝いのスタッフとして美大の拳法部の中から何人か参加することになり、その中に自分も入っていたのである。打ち合わせから当日の準備等働く代わりに、講習会にも参加させてもらうことが出来た。もちろん、それも良い思い出ではあったが、直接の転機になったのは東京センターの資料を自由に閲覧させていただけた事にある。
当時はビデオも非常に高く、それだけいろんな武道の資料が揃って自由にみられるという事はまずありえないことだったが、それによって佐川先生の元弟子の方にいただいたアドバイスが存分に活きたのである。

自分は福島県の会津が出身だっただけに、「拳児」の中に出てきた大東流には特別に興味をひかれていたこともあって、合気道関係のビデオを見ることが多かった。むろん、某流派の大東流のビデオもあったのだが、それはどちらかというと正直期待外れで、自分が一番に心惹かれたのは「1985年 第一回友好演武会」の万生館合氣道・砂泊[言咸]秀先生の技であった。合気ニュースから出版されている「植芝盛平と合気道」の中にある砂泊先生の言葉はとても率直で、技に対する考え方も非常に興味深いものであった。

ちなみに自分が見たビデオはこちら。

また、書籍「植芝盛平と合気道」から砂泊先生の言葉を一部、以下に紹介させていただく。

「私の場合、長いこと先生についていなくても、自分の非力と言うものを熊本に来て体験しました。反発するものや素直に稽古しないのがたくさんいますよ。何百人といるのですから。技をかける前に力ずくで頑張るのですから、もうきまらない。こちらが技をかけようとするとパッと止めてしまうのです。そういうものに対しては、単なるきめ技ではきまらないです。そういう他流試合みたいなものを私は経ているのです。技が効かないという事はいかに惨めか、気持ちがどん底まで落ちた状態です。それが私の一つの貴重な経験なのです。それを克服する為にはどうしたらよいかということになった時、先生の精神的なものを目標にする以外にない(中略)和合とはどういうことか、それには力を抜く以外にないのです。体力で相手にぶつかっては駄目なのです。そういうものを私は毎日頭の中に入れ、その心の世界を技の面で表してきましたし、それが稽古の中にも表れたのです。」(185ページ)

言葉だけでは精神論的な印象を受けるかもしれないが、映像を見てから読んだ自分にはますます興味を掻き立てられ、有名な高段者の先生の映像が収められている中、自分が習ってみたいのは砂泊先生の技だと思ったのだった。

とはいえ、この頃は少林寺拳法に夢中であったことも事実で、山の手道院の松田欣一郎に教えていただく機会があったのもそういった時期であった。

ということで、ここまででも長くなってしまったので松田先生のお話は次回に。

武術修行記 ~少林寺拳法編~(1)

標準

ブログを始めてから5回にわたり、自己紹介もなく怒涛の如く記事を書き連ねてきたわけだが、友人がmixiで自身の修行歴を書いていて自分もいつかやろうと思っていたのが、この武術修行記だ。
そんなわけで、閑話休題兼ねて自己紹介代わりの「武術修行記 ~少林寺拳法編~(1)」である。

◆少林寺拳法との出会い

中学で剣道を3年間経験し、一浪して美術大学に入った自分は、なんとなくまた剣道がしたいと思っていた。ところが、大学の剣道部はほとんど活動がないような感じでどうしようかと思っていたところに、クラブ紹介でふと惹かれたのが「少林寺拳法」だった。この頃は、他所の大学だといわゆる「体育会系」の空気もかなり残っていたが、そこの先輩たちは美大にくるだけあってそういう気風は嫌っていながらも、美大らしい愚直に何かを追い求めようとする空気があった。他にもそれを感じたのか、この年と言うのは男女含めて12人が大量入部した年だった。

この時、教えてくださっていたのが、後に八王子南道院の初代道院長となる米木美明先生。奔放でありながら、いつも自分がまず学ぶ姿勢というのを生き生きと示してくださっていた。
部を創設した初代の先輩は、米木先生がそういった人柄だったこそ、「だからあんたに頼みたいんだ」といってお願いしたそうだ。

少林寺拳法では年に2度、全国から集まって大学合宿というものがある。夏と冬、そのどちらかに参加するわけだが、大規模なだけあって少林寺拳法の高段者の先生方も指導者として何人か集まるので、そういった技を見ることが出来る貴重な機会でもあった。練習は段位や級別に分かれているにもかかわらず「あの先生がいいんだ」となると、率先して抜け出してその先生の技を見に行くような先生で、むろん、自分たちもそれに従った。
例えば「歩く教範」と言われる梶原道全先生の説明や技などは、教範に書いてある内容を「なるほど、そう解釈して行うのか。確かにそのままだ」と思わせるものだった。
当時、梶原先生は60を過ぎていたと思うが、講義の後のあちこちで技の確認や質問をしている時間帯の中で、ある大学の女子生徒が「すみません、私と乱捕りをしてください」と梶原先生にいわゆる組み手を申し込んだ。補足しておくと、今はどうかわからないが当時の少林寺拳法は自由組手はほとんど行わないし、どちらかと言うと禁止しているような空気があった。そんな状況の中、梶原先生はそれを引き受けると、開始の合図とともに、すっと繰り出したのが飛び二段蹴りだった。まさか、背が小さくお年を召した高段者の先生がいきなりそんな大技を放ってくるとは誰も予想しておらず、あっさりと決着がつくと「相手の虚をつく。それが少林寺拳法だ」と言って笑っておられた。そんなエピソードを直に見られたのも良い思い出だ。

その後、山の手道院の松田欣一郎先生に講習会の合間に技を質問させていただいたのがきっかけで自分の技が変わっていくのだが、とりあえず今回はこの辺で次回へと続く。