精花扇

標準

明鏡拳舎のホームページには、太極拳の項目に精花太極拳に並んで、「精花扇」というものがある。

この精花扇とは何ぞや??という話であるが、例えば、我が門には「握拳で行う双辺太極拳」や、「紙風船を手に持って行う双辺太極拳」があるが、ざっくり言ってしまえば「扇を持って行う精花太極拳」が精花扇だ。

例えば「握拳で行う双辺太極拳」を例にとると、全て握拳で太極拳を行っても問題なくシックリくるのは形意拳が融合している双辺太極拳ならではだろう。それゆえ、たったそれだけのことで様々な気づきが得られるわけだが、同様に、ただ扇を持って太極拳をするだけというにもかかわらず、様々な効果を得られるのが精花太極拳の精花扇と言える。

扇を使って太極拳をしようと思ったのには、幾つかの理由が存在する。

一つには、自分は師父より常々、この武術は武器術が根本にあることを学んできていたし、自分もまたその教えを身体に通しながら「まさにその通りだ」と思いながら学んできた。

ところが現代の日本においては、武器は手に入れづらいだけでなく、例え手に入れてもなかなか練習場所がないという残念な状況にある。

武器を練習した方が良いことにはこれまた幾つかの理由があるが、その大きな理由の一つには、武器を操る時の機能的な身体操作を身につけるという事があげられる。

棍、刀、槍、剣と、どれもこれも太極拳や形意拳、八卦掌とは切っても切れないものだし、これはそれこそ経験した者だけが実感できるものだ。だからこそ、それを伝えたいとは思っても、残念ながら現代社会においてはそれらはおよそ不必要なものであり、というよりもむしろ危険視されていて、実際に学ぶ機会を得るには幾つもの障害がある。

そういう状況で生徒にどこまで教える事が出来るか?という行き詰まりが、ある意味、精花扇の様な奇手を生み出したのかもしれない。

もちろん、武術において扇を使うのは我々だけではないし、 むしろ扇を使う事で言えばはるか後から追随している格好になる。

だが、そうであるが故に扇の使い方はあくまで独自の考え方で行なっていると言えるだろう。

例えば簡化24式がベースとなる太極扇では、扇を使った独自の技法が随所に入っているが、正直言って自分がやりたいとイメージしていた事とは、方向性が全く違っていた。

それに対して精花扇はある意味、その名の通り扇を持って精花太極拳を行うだけのものと言って良い。

だが、「ただ、それだけ」が良いのだ。

なぜ、ただ扇を持って套路を行うだけが良い練習になると思ったか?そのきっかけは、率直に言ってただの直感だった。

「シンプルな動作の精花太極拳に扇の動きはきっと合うだろう。扇の種類は中国の武術用のものではなく、小用先生が採用しているような日本舞踊で使っている舞扇が良い。」

そんな考えがなんとはなしに浮かんだ。

当然の成り行きとしてどうしても試してみたくなり、いざっ舞扇を手に入れて試してみると、果たして予想以上の感触に心がワクワクするのを感じた。

「扇で風を受けたり捉えたりするのは、ポンとの陰陽の関係に近しい。」

「扇を開いた状態は、刀の反りに通ずるだけでなく、ほんの少しだが螺旋がある。(鴛鴦鉞のような武器に感じる違和感がない!)」

「色々と道具を工夫して活用するのは、我々の武術の特徴であり、伝統でもある。実際、レンガや紙風船を使った練功まで存在するではないか。」

「日本舞踊における扇は、時に風に舞う花びらに、時に刀剣にもなるが、逆に我々にとっては扇は武器の感覚そのものである」(この感覚は、後にある体験をする事でもっと深いものであったことに気づくのだが、それはまた別の機会に)

「武器術の感覚を得るのは重要だが、武器は手に入れにくく、仮に手に入ったとしても練習する場所が限られる。一方、扇は手に入れ易く練習もしやすい。」

「日本の舞扇は作りもしっかりしていて、良い武器を手に入れたのと同じような感覚がある上に、武器に比べるとはるかに安い。」

等々、その良さがどんどん言葉となって出てくるのだ。

実際に套路に扇の動きをつける過程においては、解釈によって扇の動きは様々に変化する。その中で、どの解釈による動きを採用するかは技についての考察を深めることにも繋がった。

精花扇によって得られる効用は本当に様々だ。

これは「太極拳」と「日本の扇」という異文化が出会って生まれた新しい可能性なのだとも言えるし、様々な偶然や工夫が積み重なった結果でなければおそらく成立しなかっただろう。

実際、双辺太極拳のままで扇は軌道が複雑すぎるし、精花太極拳だからこそ成立するのだという事は、実際にやってみるとすぐに知ることが出来る。

では、精花と双辺は別物かというとそうではない。

精花は双辺太極拳を再編纂したものなのだから当然だろうと言われればそうなのだが、そう言い切れるようになるまでは、かなりの試行錯誤があったわけで、振り返ってみればいつの間にかずいぶん時間か経ってしまったものである。

だが、此処に至る過程で、体系的にはかなり整理されてきた実感もあり、それらについてはまた機会を見ながら語っていきたいと思う。